前編
この一年後、朴正熙は軍事クーデターにより政権を手にする。日本との国交が回復され、韓国の経済的な発展が優先されるという流れで、日本にとっても喜ばしい時期に入っていくのである。当時この国で野球は根付いていない。しかし野球の大好きな在日韓国人は多くいた。
中でも後に韓国の「野神」となる金星根は二十二歳で永住帰国をする。
なぜなら日本では国籍の問題で社会人野球に入れず、野球を続けるには韓国に帰り実業団に入る事が必要だと考えたからだ。ちなみに日本のプロ野球へ来た最初の韓国人選手は、白仁天という方だ(一九六一年)。
長屋を出たところの小川の土手に、紫のオオイヌノフグリ、ハコベが凛と佇んでいた。大家にあたる喫茶店のママに急な別れを告げた。
遠い親類になる彼女は内情を理解していて「淋しくなるけど仕方ないわね。すずも苦労が絶えなかったから……弘さんに大切にしてもらいなさいよ。ハイこれ」とママは餞別を手渡してくれた。
武もこんなだったろうか。荷物は最小限に控えて着の身着のまま、まるで二人は都会へ出稼ぎに出る若者のようだった。それでもいい、目前の絆を辿る道こそが二人の幸福に繋がるから。
「弘さん、私が一緒でいいのかな?」
「あたりまえだ! 二人で行くから意味がある」
一週間前に弘が動いた行程を今は二人で逆戻りしている。武が通った路を両親が追いかけて行くように。
「すぐに会うことができれば良いけど、郭さんやお父様、それにユジンさん。大丈夫かな」
「心配するな。郭さんは軍の上層部だ。すぐに連絡はつくはずだ。それにユジンさんの父上は立派な会社をしていて有名な方だそうだ。どちらかにお会いできれば、おやじと繋がりは必ず付く。生きていればだがな」
益田行より折り返しの方が短く感じた。神戸に着いて船の便を待つのに宿を借り、初めての洋食を楽しんだ。明けて四月十七日。九日間の久しぶりの日本滞在はあっという間に終わろうとしている。
「なんだか、すずの二十五年間をわしが奪ったようなものだなあ。韓国のことが終わっても一緒に居てくれる気はあるのかい?」
「もちろんです。だからママにはもうここへは帰らないからと言って私の持ち物の処分をお願いしてあります。僅かなものですけど」
「そうかい。ではわしに付いて来てくれ」
船はゆっくりと桟橋を離れて南西に舵を切った。すずと出会った日以外は穏やかな日が続いている。