【前回の記事を読む】否定的な文字「無」や「不」が多い般若心経…裏に隠された「分かりづらく、奥深い」解釈とは
第1章 般若心経「空」的生き方の智慧
どんな時も平気で生きるために「人生は引き算」
普段、僕たちが仏教に接する時って、お葬式や法事など弔事がほとんどではないでしょうか。和尚さんにお経を唱えてもらう時に、初めて般若心経を耳にする方も少なくないのでは。「葬式仏教」などと揶揄されるのもそんな所以でしょう。
俳人、正岡子規は『病牀(床)六尺』の中でこんなことを言いました(※病牀(床)六尺:重度の肺結核に侵され寝返りさえもままならない寝たきりの状態の中、6畳一間の小さな空間で世界を描写するという内容のもの)。
「苦しくて自殺までしたいと思っている時に、ふと落ち着いて考えてみたら、余は禅(禅:仏教の宗派の一つ、禅宗の略)の教えを誤解していた。禅の教えは、どんな時にも平気(平常心)で死んでいくことのできる教えだと思っていたら、さにあらず。いかなる時にも平気で生きる教えであった」
仏教は「死」を意識したものでなく、じつは「生」を意識したものです。その平常心で生きるための智慧が般若心経の「空」のエッセンスにあります。そこには「比較を手放す」「執着を手放す」「判断を手放す」など、すべてを 手放して、手放して、 手放しまくった先に見えてくる境地・世界観を「涅槃」と表現します。いわゆる「悟り」の世界です。
悟りを目標とし、そこに向かいながら日々過ごしていくことで、迷いや自我から離れられる。そして、平気で生きられるようになるという仕組みです。
人は生きている以上、完全にエゴ(迷い・自我・怖れ)から解放されることはありません。ただ、そのゴール(悟り)に向けて心を整える、「今・ここ」に意識を集中させていく行為、心がけそのものが平穏・安心に到達する道標でもあります。
僕はここ10年くらい前まで「人生は足し算」だと思っていました。しかし今「人生は引き算」と、明確に思えるようになってきました。
たとえば“情報”について見てみます。 一個人の選択肢は情報量に比例し、膨大に膨れ上がっていますよね。自ら取りに行かなくても勝手に入ってきます。凄い時代になったなと純粋に思います。ただそれゆえに、その膨大な情報に振り回されてしまうところもあるのではないでしょうか。そして、こんな時世だからこそ、いらないものは意図的に手放していくことが個々に求められているように思います。
“物”もそうですし“人間関係”においても。頭の中が氾濫してカオスにならないために。そんなところから「人生は引き算」と思うようになりました。また、引くことを意識するくらいでちょうどバランスが取れると思います。
正岡子規も、狭い病床で引き算を重ねていったのではないでしょうか。 その結果 「平気」 で生きることを悟ったのでないでしょうか。