東大合格者発表の朝、ひとりで東大駒場駅へ行き、祈りつつ発表板を見た。番号が載っていた。嬉しかった。家では両親が抱き合って喜んでくれた。東大しか受験していなかったので、安堵の気持ちもあったのであろう。少しだけ親孝行をした気分になった。
のちにN響の人から、父経秋が喜んでいたという話を聞いた。二年前に兄が、今僕が、三年後に弟が東大に入ったので、さぞ歓喜していたのであろう。想像に難くない。
自分を追い込むことで、進歩、成長、発展が生まれるのを実感出来た。若者は適した追い込みで伸びるのである。いいコーチ、リーダーはその選手に最適の追い込みが出来る人物なのであろう。のちに私立大学の教員になった。一流国立大の受験に失敗した学生も居た。伸びしろが大きかっただけにやりがいがあった。
当時身体検査でキンケンというのがあった。医者が男子のいちもつを握り、性病などを発見するのである。結核などの検査も厳格に行われていた。多分の軍隊式の名残ではないか。合格取り消しなどの噂もあったが、何事も起こらなかった。
駒場では理科Ⅱ類5Bというクラスに属した。総勢六十名、女子が二名であったが、一年先の何人かの学生が留年して、我々のクラスに入ってきた。クラスは第二外国語の専攻で分類されて何人かがおり、我々のクラスはドイツ語専攻であった。
入学時に足が速いのでラグビー部に誘われた。千五百m走ではクラスでは陸上部の関肇君の次に速かった。百mを十二・八秒の記録であった。テニス部へ入りたかったので、断った。
ドイツ語の安藤先生には、昔の髭文字を使用することを強いられ、一生懸命覚えた。安藤先生の母堂が安藤コウコ先生という東京音楽学校(今の芸大)の有名な先生であり、筆者の父経秋も指導を受けている。親子二代にわたって指導して頂く機縁を感じた。
「大学の青春駒場」の著者である山下肇先生、数学の矢野健太郎先生など高い人気の先生には受講生が多かった。通学生、寮生(駒場寮、三鷹寮)の混成であるので、話題も変化に富んでいた。東大合格者の多い、日比谷、西、灘、開成、麻布、私立武蔵、ラサール高校では歓迎コンパが盛んであった。『太陽の季節』が読まれた、石原慎太郎・裕次郎の頃であった。
その他旧制第一高等学校時代の先生も残っておられ、駒場学生寮とともに、「ああ玉杯に花受けて」の雰囲気が残っていた。日本全国からの友人達に囲まれ、厳しい長い受験生活から解き放されて、酒、タバコも許される年齢となり、楽しく懐かしい青春を謳歌した時代であった。