一部 ボートショーは踊る

マンションのエレベーターを下り、車を地下の車庫から出して白金台の大通りを走り出す間、俊夫は口笛を吹き続けた。とうとう見つかってしまった。今日帰ったら、色々とうんざりするほど言い訳をしなければならない。それもまた楽しみだ。

デリカシーに欠けた女は醜い。デリカシーこそ本当の女の美しさだ。俊夫の女性観の中心に居座っている固定観念がそれだった。幸いなことにその点では京子は何時までも俊夫にとって美しい女のイメージを保ち続けている。彼女の老いて行く形もそのイメージを偽ることはない。どんなに彼女がけたたましく彼の中に踏み込んでこようとも、俊夫には彼女の変わらぬデリカシーを慈いつくしむ思いがある。

その日家に帰った時、京子の頬は心なしか引き吊って見えた。どうやらその日一日俊夫の髭面のことで京子はストレスを溜めていたらしい。実際、夜になるともう朝の不精髭は不精髭というだけでは済まないほど伸びてきていて、頬全体に広がりを見せている。それを美しい、あるいは威厳があると感じるか、それともだらしない、無精であると感じるか、それは個人の趣味と主観の問題だ。でも、伸ばさねばならないのだ。理由は山ほどあるが説明は困難だ。

俊夫は朝と同じように“心境の変化”を繰り返した。

「やめてよ」

京子は朝の不満を更に募らせる。

「あたしは嫌よ。そんなだらしない無様な格好を会社の人にさらさないでよ。ねえ、レミ、あなたもパパを叱りなさい」

京子は抱いている愛犬のレミをけしかける。彼女の可愛がっている雌のヨークシャーテリアで、もうここ数年来の家族の一員だ。レミは京子のけしかけに応じてわんと一声吠える。

京子は夕方、一緒に風呂に入る時髭剃り道具を彼の前に突き付けた。

「はい、これで剃るの」

「嫌だ。決めたんだ」

俊夫は強情に突っぱねた。普段彼が見せる強情さは押しても引いても捉え所がないという感じなのだが今度だけは違っている。一直線の強情さだ。そんな時、京子が意地を張るのはそこまでだった。それ以上自分の主張を無理強いすることはない。それも俊夫の読みの中には入っている。