三章 母と妹の間で──乳がんを患いながらも懸命に生きる妹
三ノ二 手術とその後
妹は仕事にも一生懸命で、遅く帰るとわかっている日は、私も実家へ行っていました。
妹は休みの日も活動を広げていき、親子で短いマラソン大会にも参加していました。がん克服のイベントだったようです。もちろん克服したかどうかはまだわかりませんが、丁寧な手術とケアをしていただいた医師はじめスタッフの温かい医療のおかげで今があるのです。
腕を動かして窓も拭けます、走ることもできます、仕事にも通えています、親子ゲンカもありました。これからも、がんの不安はあります。まだずっと再発防止に向けての薬の服用は続くでしょう。
母の親しい友人で何度か乳がんが再発し、八十歳代にして今もご健在の方がいらっしゃいます。母の方が先に亡くなってしまいましたが、妹も実際にその方とも面識があり、逆にはげましていただきました。その方を目標として今もこれからも希望を持って生きていく妹の姿勢はとても素敵に思えるのです。
四章 気づいてあげられなかった悔悟──娘由美の脱毛症との付き合い方
四ノ一 小学校時代、ある年の秋
生まれたときから髪は黒々として多かった娘の由美。茶色く細い髪質の親の私もうらやましく思うほどでした。小さな頃からなんでも器用にこなして特に心配することのない子どもでした。幼稚園でも精勤賞というほとんど休まなかった子どもに贈られる賞もいただき、体の面も問題ないように育ってきました。
髪の多い女の子なので、ずっと髪型は横二つに分けてくくったり三つ編みするなど髪をやや引っ張ってまとめてきました。お風呂ももう一人で入っていて、髪などの身支度も自分でできる年頃になっていました。
小学校中学年のある秋ごろのことです。由美が突然、
「最近、髪の毛が抜けるねん」
と言いました。
私は言われるまで恥ずかしいことに気づきませんでした。
「秋ごろは誰だって毛がたくさん抜けるよ」
私は安易に由美にそう返事していました。私は、どうも何事に対しても楽観的にとらえていることが多いのかもしれません。まさか深刻な脱毛が子どもに起きるという考えはありませんでした。
このときは脱毛は、まだ少しでしたが、町の皮膚科に行って診察してもらいました。女の子なので牽引性脱毛症ではないかと言われました。
髪をくくったり三つ編みにするようなことはすぐにやめました。しかし髪への負荷をなくしても抜けることは止まりません。これは、ただの牽引性のものではないと感じました。
皮膚科では内服薬と外用剤を処方されました。せっせと薬を塗りマッサージをしました。
しかしそれもむなしく、効果はありませんでした。むしろ脱毛はどんどん進んでいきました。親として何もできていない、髪を生えてくるようにするには、ではいったい何をすればいいのだろうか、考えても答えは出ません。それでも日々考え、良い情報を得たいと調べ、と言っても当時、我が家にはパソコンやスマートフォンはまだありませんでした。
図書館などでの情報に頼る形になっていました。家で購読している新聞で、脱毛症の医療相談に掲載されている先生の記事を見ました。