海の絵

座席に着いてからの美子は、彼の存在など、まるで忘れたかのように車窓の外の風景に気をとられていた。それは美子が電車に乗った時の癖のようなもので、規則正しいリズムを刻みながら走る電車の音を聴きながら、車窓の向こうに変わりゆく景色の中に歌の材料となる物が何か見つからないかと、目を凝らしていたからであった。

しかし、美子は、その場で目に止めた物でも決して、手帳などにメモはしない。

家に帰り、机に向かった時、眼裏に強烈に残っている物に心情を織り込んで、バックにクラシック音楽などを流して歌を詠むことが好きだったからである。

美子は元々、「眼裏に残っていない物は、あの時、わたしの胸に訴えて来る物は何ひとつなかった」という、他の人とは少し異なる考えを持っているせいでもあった。しかし、「この癖は誰がなんと言っても変えることは出来ない……」と、美子は何時も頑なに思っていた。

御坊駅で電車を降りる間際に、美子の方を一瞬、振り返った彼は、「来週の日曜日にまた、あの白崎海岸へ行きます。この前の絵を完成したいので……」と、声をかけてきた。その時、美子は一瞬はっとして、急に何かを思い出さされたような気持ちになり、思わず、「あっ、さようなら……」と、的外れにも似た言葉を発した。

その後、さりげなく彼の後ろ姿を目で追うと、白い紐で結わえた大きなキャンバスを右腕で支えるようにして持ちながら、その手で紙袋を持っていることに美子は初めて気付いた。

電車を降りてプラットフォームを足早に歩いて行く彼の姿を見るともなしに見ながら、「あ、やはりそうだった。わたしの予想が当たっていた……」と、なんとなくほっとしている自分に、ふと可笑しさを覚えた。しかし、それは、ほんの一瞬のことであった。

その後、彼がプラットフォームから改札口への階段を昇り始めてから、その姿が見えなくなるまで見送っていた。

御坊駅を出た電車は、次第にスピードを上げて走っていると感じながら、美子は

「さっき、わたしは、なぜ彼を何時までも見送っていたのだろう? 何を気にしていたのだろう。どうして?」と、首を傾げていた。「それにしても……」と美子は首を傾げながら、再び、理解の出来ない不思議な感情に押し潰されそうになっている自分を意識していた。しかし、電車に乗っている時間には、その疑問にピリオドを打つことも、答えることも出来なかった。

家に着いて暫くしてから、美子は、電車での出会いを母に話すと、母は、「そんな偶然もあるもんだね……」と、相槌を打ってくれながら、その後、「それは楽しかったでしょう」と言いたげな表情をした。美子は、「まあ……」と、曖昧に答えたが、後に続ける言葉を見付けられないまま自分の部屋に入った。