明治政府の改革
明治政府は、一八六八年三月に五箇条の御誓文によって新しい政治方針を示し、欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗するために、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指しました。新政府は、一八六九年には各藩に版籍奉還を命令し、一八七一年には、廃藩置県を行いました。一八七三年に地租改正によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤を整えました。
国民には、江戸時代までの士農工商の身分制度を撤廃、四民平等とし、日本全国の行き来の自由を認め、職業の選択の自由など様々なことを短期間で改革していきました。
また、富国強兵を国の重要政策とし、郵便制度の整備、鉄道の敷設、輸出産業の育成(一例が富岡製糸場)を行い(殖産興業)、一八七三年に徴兵制を実施しました。
明治政府は短期間にきわめて多くの困難な改革をぶれることなく実施しました。それにはお雇い外国人の適切な指導がありました。
お雇い外国人、留学生、海外使節団
明治政府は、前述しましたように「創造と摸倣・伝播の法則」の通り、欧米先進国から組織的に新知識・新技術の導入を行いました。各種の技術指導のため、政府や民間が雇った外国人、「お雇い外国人」が、日本の近代化に大きく貢献しました。
清国のような中華思想・大国意識が日本にはなく、優れたもの、役に立つものはすなおに取り入れようとする日本人の性格が中国と日本のその後に差をつけたようです。
お雇い外国人の分野は、政治、法制、産業、財政、教育、文化、技術、医学など多岐にわたりました。明治初年から二二年までの統計によりますと、総数が二二九九人、国籍別ではイギリスが筆頭で九二八人、ついでアメリカ、フランス、中国、ドイツの順でした。
分野別では、工部省(明治三~一八年)が七四九人と最多でした。都市インフラ関連の事業が多く、鉄道、船舶、工作技術、電信、灯台などの設計、建設、運用などに就きました。いずれのお雇い外国人に対しても、日本の方も、当時としては最高の俸給を出しましたが、彼ら外国人は「ヤング・ジャパン」を支援する意志に燃えた一流人でした。
日本人は欧米「外国人」の指導を謙虚に受け入れましたので(模倣しましたので)、比較的短期間で、前述しましたような改革・開放に成功しました。