序章
原田はそこで、ようやく冷静になり、はたと重要なことに気がついた。つまり、流れていなかった便は、彼女のものということになる。彼女も用を足したものの、流すこともできずに、かと言って恥ずかしくて店員に言うこともできずに、席に戻っていたのだ。
だから、挙動不審になっていたのだ、と気づき、自分が戻ったらどういう顔をすればいいのか、と考えた。まさか、「君のはとってもかわいかったよ」なんて言うわけにはいかない。余計に恥ずかしくさせるだけだ。
では、「何もなかったよ」ってのは、どうだろう。いやいや、すぐに出てきて、店員と話していたのは見ているはずだから、そんな嘘は通用しない。
正直に、「あれじゃあ、流せないよね。あふれそうだったものね。しかたないよね」と言うのはどうだろう。正直に言えば言うほど恥ずかしくさせるだけだから、これもまずい。
じゃあ、いっそのこと、「あふれたら、それこそ、大惨事だね、大だけに」なんてギャグにしたらどうだろう。いいはずがない。それこそ大惨事になる。
結局、どれもいい案とは言えず、もう仕方ないので、黙っていようと思い、ようやく席に戻ることにした。原田が、こうして一生懸命悩みながら席に戻ると、何と、彼女はいなくなっていた。
席で一人になった原田は、『あのにおいがトイレを済ませたにおいだったと分かっていたら、彼女がなぜ、その後に自分がトイレに入るのを嫌がっているのかが分かったから、店を変わることもできただろうに』と後悔したのである。
その後は、原田から彼女に話し掛けることもできず、学校ですれ違っても、彼女から声を掛けられることがないことはもちろん、目も合わされなくなった。そうして、もう二人で会うことはなかった。
それ以来、人がトイレに入ったこと、そしてそれが何のためだったのかに、気づくものの、原田の人生に役に立ったことは一度もない。神様は一体、どうして自分にこんな能力を与えたのか、と問いつづけるしかない毎日であった。
原田はある日、何気なく見ていたネットに、「異能クラブ」というのがあるのを見つけた。
「何だ、こりゃあ」
原田は、妙に気になり、そのサイトを開いてみた。すると、そこに書かれていたのは、「超能力と言えるほどのものかは大いに疑問ではあるが、一応、特殊な能力と言えるものを持つ者の集まりである」とのクラブの紹介であった。そして、その本部の住所と、代表者の名前があった。本部は、「歌舞伎町」とあり、代表者は「伊能敬」となっていた。
原田は、正に、自分のことではないかと思い、一度、会社の帰りに寄ってみようと思った。