(二)イアエステ
2021年夏、2回目の東京オリンピックが1年遅れで、新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言下という異常事態の中で開催された。それより半世紀以上前の1964年の秋に1回目のオリンピックが東京で開催された。
当時日本は戦後20年を迎え、戦後経済の低迷から朝鮮戦争特需などもあって抜け出し、池田内閣の所得倍増計画、オリンピック開催などを旗印に復興景気の流れの中にあった。オリンピック開催に向けて首都高や新幹線の建設が進み、著名建築家による競技施設やホテル等の建設が至る所で騒音を響かせていた。
そして1964年の春には、半年後の東京オリンピック開催を控え、日本でも観光目的の海外渡航が解禁になった。それまでは日本の手持ち外貨も低いものであったから、企業も個人も外貨の国外持ち出しが厳しく制限されていた。しかしこの時期にきて、個人の海外への渡航制限が緩和されたのだ。それまでは、一般国民にとって不可能に思われていた、外国への夢の扉が開かれた瞬間だった。それを機に外国旅行へ出かける人は、私の周りでも少しは見られるようになってきたが、我々若者にとってそれはまだまだ高嶺の花だった。
その時の海外旅行の大部分は、ハワイヘの団体旅行であった。旅行者は家族知人等に見送られて出発し、帰りには皆、免税のジョニーウォーカーやパイナップルを沢山土産に持ち帰った。餞別返しに皆に配るのが慣わしだったからだ。その当時の渡航費用は高く、外貨の持ち出しも500ドルまでと制限されていた。当時の固定相場制で1ドルが360円だったから、18万円ということになる。
また日本円の持ち出しも制限されてはいたが、多くの旅行者は胴巻などに隠し袋を縫い付けて、円を持ち出していた。今聞くと笑い話だが、当時にあって海外に出かけるというのは、まさに重大出来事であったのだ。観光旅行が自由になったとはいえ、お金のない若者には外国の地はまだまだ遠い存在であった。
勿論それ以前にも観光目的以外で外国へ出て行く人はいたが、決して多くはなかった。仕事やその他種々の理由で渡航を許可された人や、裕福な環境にある人で私費留学する若者もいないわけではなかった。また向上心と情熱に溢れた優秀な学生には、別にフルブライト奨学金制度による留学生の道があって、結構な数の学生がその試験を受けてアメリカに渡って行った。他にも公費で留学、研究、修練などをさせる制度はあったのかもしれないが、私はよく知らなかった。