【前回の記事を読む】隠し袋で円を持ち出す?1964年、海外旅行解禁に沸いた日本
Ⅰ ヨーロッパ
(二)イアエステ
小田実もそのフルブライト奨学金でアメリカに留学し、その後ヨーロッパに渡って1日1ドルの貧乏旅行を続けた。今のバックパッカーの元祖みたいな人である。彼が帰国後、その放浪時の見聞を綴った『何でも見てやろう』が1961年に出版されて若者の間でベストセラーとなった。
当時またテレビで『兼高かおる世界の旅』が放送されていて(1959―1990年、TBS系放送)、彼女が1人で世界を飛び回り、様々な場所を訪れ、様々な人々と分け隔てなく接する姿に、多くの人々は羨望し、感動を与えられたのだった。
また北杜夫が海洋調査船に医者として乗り込んで巡った国々の見聞録『どくとるマンボウ航海記』(1960)を出版し、続いて自費で日本を飛び出した小澤征爾の『ボクの音楽武者修行』(1962)が出版されるに及んで、我々の世代の心に渡航への渇望の火が燃え上がっていった。
そして観光目的の渡航解禁と共に、我々の間で海外に行く夢がにわかに現実味を帯びてきたのだった。
今調べてみると、北杜夫は1927年生まれ、小田実は32年生まれ、小澤征爾は35年生まれであるから、我々41、42年生まれの前の世代ということになる。それらの本に刺激されて、我々世代の多くの若者が貧乏旅行覚悟で外国へ飛び出していったわけだ。
日本は戦後20年が経過しようとして経済的に復興期にあり、精神的にも戦後教育の申し子である我々は世界の中でどれほどの人間であるのか、ということを肌で確認したいという願望があっのだろう。
その後、その中の何人かがその体験を綴った本が出版され、また次の世代の若者に外国への関心を掻き立てたわけだ。藤原新也は44年生まれで『印度放浪』は72年の出版。
沢木耕太郎は47年生まれで『深夜特急』は86年の出版だ。
私は大学にいて、前期の教養課程を終え、1963年の3年生からは正規に建築学科に移った。新しい仲間と講義に出席するかたわら、もっぱら製図室にたむろして、設計課題に取り組んだり、雑談したり、碁を打ったり、また外に遊びに出たりしていた。そうする中で、何とか我々も外国へ出たいものだと話し合ったりしていた。