彼は一流の音楽家ではなかった。脂が乗りきった時期が戦争にぶつかり、クラシックどころではなくなり、楽団、楽器を編成することさえ難しい頃であった。楽団のインスペクターとして戦時下の電話通信が出来ない環境の中、自転車で楽器を手配し、楽団員を回り、コンサート開催に漕ぎつけた話を聞いている。
新交響楽団(新響)―日本交響楽団(日響)―NHK交響楽団(N響)と名称が変わったが、ずっとそのメンバーとして定年まで連なっていた。又多くの弟子を育てている。
思い出す団員として、海野義雄、滝川広、竹内輝次、鷲見四郎、大村卯七、岩淵竜太郎、吉田誠、高橋末吉、小野崎、千葉馨、大橋、小森宗太郎、常松之俊、小野千枝子、原田喜一氏らの顔が浮かぶ。
若い優秀な人が入団すると少しずつ席(プルート)が後ろに下がっていく。サラリーマンの人生とは異なる父の序列変動を目の前に見せられた。まさに実力一本で行くプロの世界なのだろう(プロ野球に似ている)。
父の葬式の日に元N響マンが楽器を担いで合奏をして天国へ送ってくれたことは、父の最大の喜びであったに違いない。このようなことは音楽の世界で一生を終えたからである。サラリーマン人生では味わえない。
故藤田経秋のことについてN響の団誌⎾フィルハーモニー1981年5月号⏌に略歴とともに記載されている。中学校での音楽教育、室内楽を中心とした啓蒙活動、戦中戦後のインスペクターとして獅子奮迅のオーケストラ活動、幼児音楽教育などについて暖かな文章で触れて下さっている。家族の一員として感謝である。
生母喜与子のこと
筆者が五歳の時、妹麗園子の出産の時、出血大量で亡くなった。永田保次郎牧師の三女として祖母有との間に生まれた。子供の頃から勉学、特に音楽に優れ、父の伝道活動ではリアカーの上で足踏みオルガンと一緒に運ばれ、讃美歌を弾いて布教活動を助けた。
当時の上野の音楽学校に合格し上京、ピアノの腕前が良く、御前演奏者に選ばれている。経秋と知り合い、大田区洗足に家を構え、経秋を一流の演奏家にするため、身を粉にして支えた。小生を含め、四人の出産は順調であった。五人目の時に不幸が訪れた。まだ三十五歳、さぞ無念であったろう。
小生が五歳の時に亡くなったので、生母の記憶はあまりない。ただ葬儀の時に沢山の訪問者と自動車が来ていたことを喜んでいたと聞いている。戦争に入り、子供にも影響が出始めた。色々な場面で、生母喜与子のことを偲び、部屋に飾ってあった遺影を拝み見ている自分を思い出す。
どんな子供にも母親は絶対であり、大切な存在である。讃美歌の五百十番「まぼろしの影を追いて、母は涙乾くまなく、祈ると知らずや」はいつの間にか愛唱歌になった。
②継母篤子のこと
篤子は、日本聖公会東京教区の長老穂積猛氏の長女として東京の下町に生まれた。裕福に育ち、小学校へ人力車で通った話を聞いたことがある。幼児教育専門コースを修了し、幼稚園保母として鉄砲州幼稚園を中心に活躍。昭和十七(1942)年に牧師の紹介で経秋と結婚、二児をもうける。
太平洋戦争、疎開、爆撃による家焼失など、大家族の母として、又後妻として苦労をしている。ゼロから小山台幼稚園を立ち上げ、幼児教育に情熱を燃やし、七人の子供に高等教育を受けさせている。子供の頃は分からなかったが、実社会で大事なことを身近で厳しく教えてくれている。深い感謝を捧げたい。