ピアノ塾のチュ先生は鞄をあけ、レコードのアルバムを取り出して言った。
「今日は、先週約束していたこのアルバムを聴く。今から聴く曲は〈ウェーブ(Wave)〉〔アントニオ・カルロス・ジョビン(Antonio Carlos Jobim, 1967)〕だ。この曲については前にも話したことがあるが、ボサノヴァの先駆者となったのはだれか、覚えているか?」
「アントニオ・カルロス・ジョビンです」
生徒たちが一斉に言った。
「よし、正解だ。ボサノヴァは、ジャズの歴史において、最も素晴らしい音楽ジャンルだ。ジャズを言葉で表現するのは難しいが、どうしても説明しなければならないとすれば、ジャズは美と幸福を表現するものだと言えるだろう。ボサノヴァという用語には、悲しみやノスタルジーやロマンスという意味があるだけでなく、無限の美と幸福という意味もあることを知っていたか?
アントニオ・カルロス・ジョビンは、ボサノヴァの創始者で優れた芸術家だ。彼の音楽には、人生の意味が表現されている。人生とは、皆も知ってのとおり、その時々で悲しくも、美しくも、幸福にもなりえる。それでは、ジョビンの曲を聴いてみよう」
チュ先生がプレーヤーにレコードを載せた。まず前奏が、前奏に続いて主旋律が流れてくる。曲が進んでいくと、生徒たちがひそひそと話しながらヒョンソクのほうを見ていることに、チュ先生は気づいた。室内は活気づき、生徒たちは楽しそうに音楽に耳を澄まして聴いていた。その様子にチュ先生の顔がほころんだ。この曲にこれほど夢中になっている生徒たちを見て、彼は嬉しくなったのだ。
曲が終了した。チュ先生がたった今聴いた曲の感想を生徒たちに尋ねると、生徒は皆気に入ったと答えた。その時生徒の一人がはっきりした声で言った。
「実は僕たち、以前にこの曲を聴いたことがあります」
「どこで聞いたんだ?」
「先週、先生がいらっしゃる前に、ヒョンソクさんが弾いてたんです」
「そうなのか」
チュ先生はヒョンソクのほうを見た。両眉を上げ、不思議がるように。
その一年ほど前、ヒョンソクが譜面なしで〈マイ・ソング(My song)〉〔キース・ジャレット(Keith Jarrett, 1978)〕を最初から最後まで弾きこなしたことを先生は思い出した。耳で覚えて演奏したのだ。チュ先生は、その時にヒョンソクが極めて才能のある音楽家だということに気づいて以来、多くの関心を持ちながら、ヒョンソクの成長を見守ってきた。
しかし彼は、ヒョンソクがヘグムの伝統音楽において、次世代の一流演奏家になる道が定められていることも、すぐれた名工になれるほどの技術的な専門知識をすでに持っていることも知っていた。
ヘグム楽器の製作は、ヒョンソクの家系に代々伝わるものだ。だから、ヒョンソクの父が息子に家業を継がせようとしていることも、ヒョンソクがピアノを続けられないことも、チュ先生はわかっていた。それにも関わらず、ヒョンソクはピアノをあきらめようとしなかった。だから、ヒョンソクのピアノに対する情熱が家族の願いと真っ向から衝突することを、彼はとてもよく理解していた。