二章 母が残してくれたもの──リウマチ 肺炎で晩年に苦しんだ母
二ノ一 元気な母
父が亡くなって私たち三人の生活が始まりました。母は、これまでのことにいったん区切りをつけ、妹がまだ学生であったことから、自分はまだまだ働いていかねばならないと、思いを新たにしていたようです。
すぐ仕事にも復帰しました。母は、毎日、仏壇の父に手を合わせ、般若心経の教本を見ながら唱えていたのですが、すぐに、暗唱できるようになっていました。
母は、陽気な人柄で、赤ちゃん連れや犬猫を連れている人には、見知らぬ人でも声をかけて、近づいていったりするような人です。おしゃべりも好きで、ときには病院の待合室での会話は、注意されることもあるほどでした。
いつも明るく仕事でもなんにでも前向きな母。息抜きは、なんだったかというところですが、人とのたわいない会話が、日々のストレス解消になっていたのかもしれません。友人も多く、特に郷里から同じように都会に出てきていた数人の方と七十年以上に及ぶ息の合った交流がしばしばあり、それはうらやましく、大変尊い素敵なことだなと、感心していました。また母は、地域のカラオケグループにも加わっていました。
新しい課題の歌詞をいただいては、カセットテープを聴いたり自分で練習をして教室へ通っていました。後には、民謡の会にも入って、衣装や小物類も揃えて、歌や踊りを楽しんでいたようです。
休日には、友人との食事会や小旅行にも喜んで出かけ、人生楽しまなきゃと自ら言って元気に過ごしていました。数年経ち、私は家を出て、また数年後には妹も家を出て、家の中は母一人になってしまいました。
それでも引き続きの趣味や人とのお付き合いが多かったので、寂しさもあったでしょうが、私もまだ少しは安心していました。母は大きな病気はせずに、七十歳過ぎまで一生懸命に働いてきました。仕事を辞めたときには、本当にお疲れ様でした、という気持ちでした。これからは、趣味のことだけに動いてもらえばいいなと思っていました。
あるとても寒い日のことです。家に電話をしたところ、なかなかつながらず、夜にやっとつながりました。外出の用もあり、その後に「公園を一周、歩きに行ってきた」と言います。一周が3kmほどある公園です。
「えっ、こんな寒い日によう行くわー」と私が言うと、「寒いからこそ行って歩くんよー」「あったまってきたよー」と言うのです。
家から徒歩圏内のところに大きな公園があります。老若男女が遊びやジョギングにもよく集まってきているようなところです。
私は安心するとともに、母が自分自身に甘えず健康につなげようとする考えに教えられたように思いました。まだまだ私たち子どもの世話にはならないように自分の体は自分で鍛えるよと言っていました。
素晴らしい心がけです。母は、よく外出しているので家に電話をかけてもあまりつながりません。自分でも言っていましたが、それも母なりの元気な証拠だということで、私も半分納得していました。
母は健康に関することは何かと気を配り、健康診断も積極的に受けるようにしていました。骨密度が高いことも嬉しそうに話していました。がん検診も受けていました。七十歳代半ば頃だったかと思います。
子宮がん検診だけを長年受けていなかったのですが、ある健康診断で子宮の異常を指摘されました。再検査を進めていくと、巨大な子宮筋腫があることがわかりました。重量にして二kgほどの筋腫を手術にて摘出しました。
下腹が膨らんできていたのも、トイレが近くなってきていたのも、どちらも徐々に積み重なってきていたもので、高齢化のせいとばかりに思っていたことを母と私は反省したのでした。
すっかり、お腹もへこみ、圧迫の影響での頻尿も解消され快復しました。しかしこの頃から、徐々に次の病気が来ていました。