裕美は佑介を気遣い、「大丈夫? 歩ける?」と聞いた。佑介は

「全然」とそっけなく答えた。

「一体、どうしたの」

「林のやつが取れもしないボールに飛びついてきたんだよ。普段は理屈っぽくて慎重なくせに、運動はむちゃするんだ。こっちも、靴がすべって飛びそこなって。ところでママ、その服は何?」

「ちょっと、サイズがねえ」

「そうじゃないよ、ママの仕事の服なんて初めて見たよ」

「そうだったかしら。ちょっとセンスがね。これであんまり外は歩きたくはないんだけど」

「どうして? ママはスーパーで働いてるんでしょ。それなら、制服でおかしくないでしょ」

「まあ、そうだけど」

裕美は有名ファッションブランドの社長として、こんな格好を人に見られてはまずいのだが、そんなことは言えないので、ただ口ごもるしかなかった。

家に帰り、子供を家において、「静かにしてるのよ」と言い聞かせておいて、裕美は会社に戻った。

夜、家での夫婦の会話。

「今日は本当に焦ったわ」と裕美が言うと、英介は

「でも、何とか、ごまかせてよかったな。お互い、裕福な家庭で育った子供が、自分じゃ何もできないくせに、ただ親の七光りで威張りまくって、贅沢な生活を送っているような、どうしようもない奴になっているのをさんざん見てきた。中には、結局親から引き継いだ事業をつぶして、それでも自分には何にも能力がないからどうしようもなくて、食うや食わずで、どこに行ったか分からない奴もいる。

うちは、そんな子供だけにはしたくない。そのためには、贅沢させないで、どんな状況になっても、自分の力で生きていけるようにしてやろうと決めたんだ。お金だけ残してやったって、使い切ってしまえばおしまいだ。お金だけあっても、能力のない子供にしちまうと、そうなることも多い。

そうじゃなくて、まず自分だけで生きられる能力を付けてやれば、お金があってもなくても生きていけるし、お金だって結局は残るものだ。子供にこの能力を与えてやるのが親の務めと思うんだ。お金だけ残すのは結局子供のためにはならない。むしろ駄目にする。裕福に育ててやったから子供は幸せだろうと思うんだろうけど、そんなのは親の自己満足でしかない。

うちの会社は大きくなって、今や、日本全国だけでなくて、海外にも支店がある。これを引き継ぐかどうかは子供次第だけど、もし引き継ぐんなら、それだけの力がないと駄目なんだ。獅子は、子供を千尋の谷に落として、そこから這い上がって来たものだけを育てるという。そういうことなんだ」

「それは分かるけど、でも、贅沢させなくてもいいけど、わざわざ貧乏みたいにする必要もないんじゃない」と、裕美にもそこまでしなくても、との思いがある。

「だから、普通の家庭くらいにしてるじゃないか」

「でも、それじゃ、千尋の谷に落とした、とは言えないんじゃない」

「自分が、貧乏にする必要がないって言ったくせに、矛盾してるな。でも、そのとおり。千尋の谷は少し言い過ぎかな。本当に千尋の谷まで落として、わざわざ貧乏にしなくても、普通の暮らしにすればいいんだよ。贅沢さえさせなきゃ、自然と実力を付けるようになるもんさ。普通でいいんだよ。

それでも、たまに、ちょっと贅沢できて、お金があるといいな、って思えるくらいがいいんだよ。そうすりゃあ、頑張って勉強しようって気になるんじゃないか。金持ちにならなくてもいいんだよ。お金は充分にあるんだから。でも気持ちはハングリーでなきゃ」