小林の一連の批評作品は、常識から “逆引びき”が可能なこと

小林の批評活動そのものが、文学から哲学、詩、音楽、絵画、あるいは自然科学や学問全般へと及ぶ、膨大な領域を踏破した、その生涯の作品コレクションにおいて、常識をキーワードに逆引きが可能な、人間作物の一大百科事典の観を呈ていしているのである。

その批評の生涯は、社会に向かって、常識を、いかに解放(・・)()、放出し、広く浸透、普及させるかということにこそ、その方法上の徹底した眼目(がんもく)があり、一切の企てや工夫があったのである。

また、そうであればこそ、小林の作品においては、思想の同じ深さが扱われる場合でも、哲学の難解な用語は極力排されて、平明(へいめい)な作品作りが自明とされているのである。これは、思想の批評的実践においては、常識が通じる言葉の一般性や平明さがあれば、十分であるはずだからである。

それはちょうど、デカルトが、自らの哲学を、格式ある伝統的なラテン語ではなく、日常の生活感覚になじんだ、俗語のフランス語で著したのと似ているのである。

実際、小林作品の「難解なる平明さ」は、むしろ、常識に通ずることの困難なのである。我々の知の自覚の形式ないし習慣的な在り方が、その反省的な営為に参加することを妨げているのである。

─常識は、いわば一旦手に入れば、文字通り常識で、自明でさえあるにせよ、しかし、それを手に入れるまでの間は、常識が、必ずしも容易とも、明らかともいえないのである。