上海輪舞曲

賢治は今年三十二歳になる。大学卒業時にこの国の先行きに疑問と不安を感じながらも就職した。

その、普通の出版社だと思って就職した「東方社」は軍の情報関係と結び付いている会社で、その社命によって上海で暮らし、終戦後の混乱の中引き揚げてきたのである。

山家中佐は戦乱下の上海で、賢治は東方社からの出向のはずが、その意思とは関係なしに陸軍報道部の軍籍があるとされたときの上官で、当時は軍隊での上官と部下という立場は抜きにして、互いに人間同志としての付き合いをしてくれた数少ない日本人の一人だった。

その山家が終戦の二年前、上海陸軍の報道部で長年続けてきた上海方面の宣撫活動の総責任者を突如解任され、本国に召還されたことは知っていた。しかし、その後の消息を七年経った今、このような形で知ることになるとは思いもよらないことだった。

四年前、昭和二十一年の夏の終わりであった。上海から帰国した賢治は、進駐軍のキャンプへバンドや歌手を手配する仕事の目途がやっとつき始めた頃だった。誰もが生きていくのにやっとの状態で必死の生活の合間を縫って、小石川の旧東方社の社屋があった場所を訪ねてみた。

一年前の阿鼻叫喚の地獄絵が信じられないような気の抜けた風景の焼け跡に三十坪ほどの建物が新築され、社名こそ文化社と変わっていたが、顔に見覚えのある昔の同僚たちが空腹を抱えながら仕事に取り組んでいた。

東方社時代には軍の後ろ盾で外国向け戦略宣伝雑誌『FRONT』を出版していた会社の、文化社と社名を変えての戦後最初の仕事は、賢治が引き揚げてきた終戦の翌年二十一年二月出版の『PICTORIALALPHABET ―児童ABC絵本』という定価五円の子ども向けの絵本で、四月には、B5版六十四ページ・グラビア刷りの写真集『東京一九四五年秋』を発行、この本は進駐軍のPXにも納めることになり、和英併記で記述されている。

印刷用紙やインキなどの資材は、戦中発行していた雑誌の残りが使えたので、「カストリ雑誌」と呼ばれた他の出版物とは比べようもないほど上質の写真誌が作れたのである。

しかし激動する戦後の社会・経済の混乱の中で、東方社時代には軍という巨大な力に守られ、「経営」という観念の希薄な技術者の集まりであった集団の力では、その荒波を乗り切ることはできなかった。

出版活動としてはこの二冊を世に出しただけで、一九四六(昭和二十一)年の秋には解散せざるを得なくなったのである。