第一章

最初に行ったのは踊りのお師匠さんの家だった。

このお師匠さんは賢治が子どもの頃、独身だが子ども好きの人で、逆立ち歩きが得意で子どもが行くと必ずやって見せてくれた。

「おじちゃん、逆立ちして!」と言うと、

「あら、坊や。おじちゃんじゃなくってよ、お師匠さんとお呼び」

下駄のような四角い顔の五尺に満たない小柄な身体で、シナを作って女言葉を使う。

玄関先の表札には「花柳弦兵衛」とある。

賢治は「おししょさん、おししょさん、おしょさん」と頭の中で唱えながら、確かお寺にも「おしょさん」は居るなと思った。

久しぶりに訪ねたお師匠さんの家は十年前と変わっていなかった。

半ドンで授業が終わった土曜日の午後、

「こんにちは、花富久の薬袋です」と格子戸を開けて、ことさら大きな声で挨拶すると、

「はいはい、どちら様?」とお師匠さんが自ら玄関先に出てきて、

「まあ!ケンちゃんじゃない。滅多に殿方が来る訳ない家に、薬袋ですなんて畏まるから何かの御用聞きかと思ったわ」

稽古の最中らしく、玄関の三たたき和土には四、五人分の女物の履物がある。来意を告げると、意外にもあっさり了解して、趣意書を見せるまでもなく稽古場へ案内された。

そこは八畳ほどのよく磨き込まれた板の間で、肌襦袢に浴衣の娘たちが正座し、先輩芸者の横では姐さんの動きに合わせて賢治たちと同年代と思われる半玉が「清元」でテンポの速い、コミカルな踊りをおさらいしていた。

賢治には見慣れた景色だが、もう秋なのに娘たちが浴衣姿でいることにカラスたちが驚いていると、「さあさあ、今日は未来のお馴染みさんたちがお見えだから、一同揃って扇の要返しをご披露しますよ」といって、全員並んでお師匠さんのチントンシャンのクチ三味線で、踊りの基本動作の一つを見せてくれた。

要返しとは、開いた扇を片手で持ち、要の部分を指で押さえてくるりと回し、持ち手の上下を交互に替えて、扇がクルクル、フワフワ無限に回っているかのように見せる動作である。

しばらくすると、まださほど時間が経っていないのに、四羽のカラスたちは女の汗の匂いが立ちこめるこの場にいることが苦痛になってきたらしい。お師匠さんへの挨拶もそこそこにこの場から退散した。とりあえず、所期の目的の一部は達成したのである。

その晩、賢治は「おかあさん」の前に座らされ、説教された。今日の昼の一件が、母の耳に入らない訳はないことはわかっていた。

「踊りのお稽古を見学に行ったことがいけないって言うんじゃないわよ。でも、物事には順序ってものがあるでしょ。何で先に私に相談しなかったの?」

母がそう言うであろうことはわかっていた。いえば色々面倒なことをいわれると思うから言わなかったのだ。