心の正体とは、どのような構造と機能を持っているものなのだろうか。

私は、瞬間瞬間を生きていると思う時がある。また、人間は意思を伝えるために言語という伝達方法を持っているし、書くこともできる。それでもすべての心のうちをわかり合えることは不可能だと思う。人間内部の心の状態をスーザン・ランガー(哲学者)は、大きな海と小さな孤島に例えた。

「人間の直接体験の世界は感覚という大海である。それは個々の人間の内部にあって、第三者にうかがい知ることのできない世界である。その世界の一部を我々人間は言語にして、外に向かって表現する。しかしそんなふうに表現できる部分というのは、感覚の大海に比べれば小さな島のようなものでしかない。我々が言語化できる部分、他人に伝える部分は、我々が実際心の中で感じていることのすべてに比べれば、実にわずかなものだ」

ランガーはそう語っている。確かにそうだと思う。私が老婆から感じたものは私の感覚であって、ある人にとっては「貴女おかしいんじゃないの」と一笑される話でしかない。

私には小鳥の鳴き声が、観音菩薩の声のように聞えてくるのも同じことである。

この頃、記憶と感覚の力が生きるキーワードだと思うようになった。それでも、人は一人では生きていけない。他者とつながっていたいと願う気持ちは、誰の心の中にもあるのだと思う。

そして、私が今生きているということは、たくさんの人たちの力を借り、支えてもらったおかげだと思えるようになった。家族には心配のかけ通しだったし、生きている人もいれば、死者たちもいる。まだ命を与えてもらっているのだと思う時もある。

確かに「自然は大きな書物」(辻邦生)だし、読んだ本の著者たち、象徴主義や東京大学のフランス文学の周辺にいた人たちにも惹かれてきた。また、年を重ねるに従って、誰にでも存在するだろう無意識の世界や、人間は「祈り」という大きな力を授かった生き者だという思いが強くなった。

仏教に惹かれる一方で、シモーヌ・ヴェイユ(フランスの哲学者)の『重力と恩寵』も、大切なことを教えているのだと考えるようになった。

キリスト教であれ、仏教であれ、それは人間の営みの問題と位置付けた時、私自身に深く触れるものを感じるようにもなり、宗教の拠り所とするものは、理性を越えた彼方のものであるのかもしれないと考えるようになった。

また人は人生の危機に陥った時、それを機縁として、超える(超越性)ものに導かれ、新しい人生に向かって歩いていけるようにも思えてきた。私は特定の宗教を持っているわけではないが、宗教体験とは、超越者(大いなるもの)側からの呼びかけによって救済されるものだという経験を多少したのかもしれない。

超越的なものは高みからもたらされたものではなく、私の内にあるものの出現。

言い換えるなら、宗教の必然性が私の裡に現れたのだと思った。時は不思議な流れ方をするものなのだろうか……。

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