私はその後アルペンスキー競技に打ち込むようになったが私を育ててくれたのはニセコの山と岡田さんであった。

雪が積もらない室蘭から今は廃線となっている胆振線でニセコに入り、日大アルペン陣の合宿場となっていた岡田さんの山小屋に同居させてもらいながらポール(回転競技の旗を付けた竹竿)運びや毎晩のように降り積もる練習バーンの雪固め役としてインカレ(全国大学学生スキー選手権)アルペンチームの練習に入れてもらったのである。

当時、ニセコ比羅夫温泉スキー場には未だリフトが設置されていない時代であったが、その後オリンピック開催決定を受けて沢の右壁(アルペン用語で三十度以上の急斜面)まで第一リフトが、その壁には第二、千メートル台地には第三、そしてニセコの大斜面に取りつく下まで第四リフトが設置されて冬季には人を寄せ付けなかったニセコも今はヨーデルが流れる東洋一のスキーのメッカとなっている。

しかし近年、私のその心からの故郷であるアイヌモシリが雪を求めて訪れるオーストラリア人や中国人などに土地を買われて異国の地になっていくのが哀しい。

[写真1]ウタリ 入り口に雪の吹き溜まりがあった

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