イギリスの中国内陸部進出
イギリスは中国内陸部へさらに進出しようと、ビルマと中国の雲南を結ぶ通商路を開くために探検隊を派遣しました。一八七五年二月、通訳を務めていた北京のイギリス公使館書記官のマーガリーが正体不明の武装集団によって殺害されると、中国に圧力を加えて一八七六年九月、煙台協定を調印させました。
この協定で
①雲南省の都市に通商状況観察のための官吏を駐在させること
②長江沿いの四港を新たに開港させること
③イギリスは四川省の重慶に通商状況観察のための官吏を駐在させることができること
④重慶も汽船が就航した時点で開港すること
など、通商上の権益を獲得しました。このように、イギリスは雲南や長江など中国内陸部の権益獲得に乗り出していきました。
清仏戦争と天津条約
一八八四年六月、ベトナム北部でフランス、清国の武力衝突が発生し、清仏戦争が始まりました。
両国はベトナム北部で戦うと同時に、フランス艦隊は一八八四年八月、台湾の基隆を攻撃し、次いで馬尾の福建艦隊を壊滅させ、台湾を封鎖し、翌三月に澎湖島を占領しました。
一八八五年六月、天津でフランス公使パトノートルと李鴻章との交渉が行われ、天津条約が締結されて清仏戦争は終結しました。この天津条約第一条で、清国はフランスがベトナムと結んだユエ条約(フランスのベトナムに対する保護権が明示されています)及び将来の条約を尊重すると規定されていて、清国は間接的な言い回しで、ベトナムに対する宗主権を放棄させられました。
こうして一八八七年一〇月、フランスはベトナムにカンボジアを加えたフランス領インドシナ連邦を結成しました。なお、ポルトガルは一六世紀なかば以来、特別居住権を得ていたマカオを、一八八七年三月に締結したリスボン議定書によって正式に領有しました。