【前回の記事を読む】戸惑いとともに口火を切った!明治時代から賛否両論、小・中学生の英語教育
死んだ英語教育の歴史
3 噴出し始めた英語教育への不満
「低学年への英語教育は弊害あり」
森有礼の「英語国語化論」が否定されて、やや失速したかに思えた英語ブームは、1886(明治19)年の高等小学校英語科設置に向けて勢いを取り戻していきました。しかし、その勢いも、再び収まりを見るようになります。
27年(1894)前後には教育勅語が出されて欧化主義が終わると、英語ブームが去って、いったん下火になる。その後また持ち直して、この統計の始まる33年(1900)頃からは加設校数・加設率ともに安定する。
(『日本の英語教育200年』伊村元道著/大修館書店2003年刊/235~236頁より)
そして、小学生年代への英語教育が普及する中、「低学年への英語教育は弊害あり」と声を上げた英語学者がいました。西洋文化の流入が止やまない時代にあって日本画の発展に寄与した岡倉天心の弟、岡倉由三郎です。
岡倉由三郎は明治27年(1894)に『教育時論』に連載した「外国語教授新論」の中で、次の4つの理由から、小学校から外国語を学ばせるのは害こそあれ、利はないと主張した。
1.日本語の習得すら不十分な小学生に外国語を教えるのは弊害が少なくないこと
2.外国語教授に十分な支出ができないので、不適当な教師しか雇えないこと
3.小学校だけで終わる生徒が多く、外国語に費やした時間が無駄になること
4.中学に進む一部の生徒のために随意科として設けても、別途の労力を費やすこととなり、訓育上弊害を生じやすくなること
(『日本の英語教育200年』伊村元道著/大修館書店2003年刊/235頁より)
この主張から13年経って、高等小学校の就学年齢が10歳から12歳に変わり、約20年続いた小学生年代への英語教育は終わりになります。一方、岡倉由三郎はこの間にヨーロッパへと旅立ち、イギリス、ドイツでの4年間の留学を終えて帰国した後、新たな外国語の教授法を提唱することになります。