大正期に起こった英語存廃論

大正時代に入ると、英語教育廃止論が盛んに唱えられるようになり、英語教育を推進する側としばしば意見を戦わせるようになりました。その主だったものを『日本の英語教育200年』から紹介します。

口火を切ったのは、1913(大正2)年から1914(大正3)年まで第1次山本内閣で文部大臣を務めた大岡育造で、退任して2年経った1916(大正5)年のことでした。

大正5年(1916)の『教育時論』(開発社発行、旬刊)第1133号に、かつて文部大臣も務めたことがある大岡育造が「教育の独立」を寄稿、「中学校より必修外国語科を除却すべし」と主張した。その論旨は「厳然として独立せる国が、普通教育に於いて外国語を必修科とする理由は断じてない。外国語を除却することによって、幾多の利益を収め得る。第一には生徒の苦痛の減少である。第二には教育費の負担軽減である。第三には時間を他に転じて有効に使用し得られることである。而して一般の知識が低下することを防ぐためには、国家に翻訳局を設け、新知識を翻訳して安価に供給すればよい」というのである。

(『日本の英語教育200年』伊村元道著/大修館書店2003年刊/271頁より)

このような廃止論に、英語教育擁護論者が反論──。

東京外語の村井知至が「中学校に於ける英語教育の拡張」と題して大岡の説に真っ向から反論した。「大世界的局面に処するには、普通知識もまた大世界的ならざるべからず。中学卒業生の英語の役に立たざることは、外国語を必修科にするの不可なるにあらずして、教授法の不完全か、学修者の努力の足らざるが故なり。〈中略〉」〈中略〉

結論として「中学校に於けるあらゆる学科を、悉く英語の教科書を以て教授し、今日の英語の時間として用うる時間を国語漢文の時間となすことの反って至当なるを信ずるものなり」と英語教育拡張論を展開した。

(『日本の英語教育200年』伊村元道著/大修館書店2003年刊/271~272頁より)

1924(大正13)年、過激な英語排撃論が新聞に──。

大正13年(1924)5月にアメリカが移民法を改正して、日本からの移民をすべて禁止したとき、日本人の対米感情は極度に悪化した。日本人は帰化不能外人としての汚名を着せられたのである。日本人の誇りは深く傷つけられた。〈中略〉

日米戦争を予想するような物語が少年雑誌にも登場して、反米感情を煽り立てた。報復として、英語への反撥も強まり、過激な英語排撃論が『東京朝日新聞』などに載った。

その代表的なものは、海軍少佐福永恭助の「米国語を追払え」(東京朝日、6月18日)であった。〈中略〉

これを受けて数日後には、朝日新聞記者、杉村楚人(そじん)(かん)の「英語追放論」(6月22日)が出た。

私はかねてから今の中等教育から英語を追い出したいと思っている。それが出来ないなら、せめて中学の英語を随意科にしたいと思っている。今の中等学校の英語教育ほど無用なものはない。1週間10時間位教えて、5年たったところで、何になるものでない。

殊に今の英語教育は読むことにのみ重きを置いて、その他はほんの付けたりに教えるだけだから、中学校を卒業しても、話も出来なければ手紙も書けない。読む方にしたところが、まことに中途半端のもので小説が読めるじゃなし、新聞が読めるでもなし。卒業後、高等の学校にでも入って、さらに研究を続けるなら格別、そうでない以上は、大抵3、4年のうちに忘れてしまうのが落ちだ。世の中にこれほど馬鹿々々しい事があるものでない。

(『日本の英語教育200年』伊村元道著/大修館書店2003年刊/272~274頁より)

他にも数多くの英語排斥論や英語無用論が新聞、雑誌上で飛び交いました。こうした論議が持ち上がる背景には、成果の上がらない英語教育の実態がありました。