【前回の記事を読む】「縛るのは実の子供の役目だ」暴れる祖父に勇気が出ず、母は…」
第2章 天然だったけど頑張る母
実家は大病院の道向かい。いつでも連絡くださいと連絡先を置いてきた。総合病院で24時間看護の病棟なので「滅多に電話したりしませんよ」(でも、きっとかかってくる)
急いで食事を取ってシャワーを浴びたら、やっぱり電話があった。いきなり「お母様が暴れるので止められません、助けてください」と明け方看護師さんから通報? があり病室に行くと、あらゆる管、血圧の腕巻き点滴の針を外そうとするのを看護師さんが必死に押さえていた。
ところが寝返りを打ち私の顔を見た瞬間、母は外そうとした酸素吸入器をまるで何もなかったように戻し看護師さんが残りの装着をすかさず直した。謝らなければならない立場なのにお礼を言われてしまった。病気が治ったあとにしっかりお話をしようね。看護師さんに迷惑かけてはだめよ、と言ったら素直にうなずいた。そんなに怖いのかい。
母は卵巣がん、乳がんを治療しており当時は入院歴が長く、入院になれ特に卵巣がんの時は問題を起こしては、病院から私に連絡があった。病室にピザの宅配を頼み怒られたら、寿司を頼む。また怒られて、私に銘菓を病室に差し入れさせ他人に抜け道を教える。自分も近くの図書館に出入りしていた。何度「お母様が行方不明で……。申し訳ありませんが探していただけないでしょうか?」という電話がかかってきたことか。
もしかして、と思って家に電話したら、つながった。何しているのと聞いたら
「掃除をちょっと」
「看護師さんに迷惑をかけないでちょうだい」
抗がん剤の苦しみは、半月。休憩時間が半月。この休憩時間に好き放題をしていた。大動脈解離の時入院費用の保証人と患者の行動の保証に関する書類が来た。入院費用は払ってもいいが、行動は手に負えない。別々の人でもいいですか? と聞いたくらいだが、だめですと言われた。署名するしかなかった。
深夜に暴れるケースが多くなり、会社へは特急で3時間(乗り継ぎあり)午後3時から4時頃でぎりぎり出社、看護師さんにお願いしていた。母も言ってたものね、縛るのは実の子供の役目だって。母の前で、看護師さんに「暴れたら遠慮なく縛ってください」と言った。祖父を縛っているのを見ていた私でもあの頃はこんな日が来るとは、思いもしなかった。
大動脈解離時は、何度も何度もトイレに行きたくなるけど看護師さんでは母をおまるに移せず、体重が3桁の母のおまる移動は体重が半分以下の私ではさすがに腰にきた。夜一旦実家に帰っても夜中から明け方まで何度も呼び出されていた。実家が母の入院している大きな病院の道向かいでよかった。助かったぁ。それも今から考えるととてもかわいい出来事でした。家に帰る時間があるのですもの。
入院から約3か月後大事なお話がありますので、来ていただけますか? と呼び出しがかかった。
「転院をお願いします」
と言われた。上側にあと4cm裂けてしまったら死んでしまう状況ではあるが大病院では病状が変化なかったら(病状が悪くても)3か月しか看ることができない規則があるらしく
「一番近い内科に移れるように紹介状を書きます。どこが近いですか?」
「ここです! 道向かいのマンションに住んでいます」
ここではもう限界だそうで、治療してはもらえない。誰が決めたんだ。大病院の弱点だ。4㎝で全く危険度が高いままなので、日常生活は送れない。しかも、歩けなくって、食べることができていないのにおむつを替える人もいないのにどうすればいいのか? このままこの病院で治療願いたいとの申し出が許されることは、なかった。
あんまり動かないこと、軽いものしか持たないこと。安静にすること、家事は父に頼むこと。ちゃんと言い聞かせていたが、言い聞かせなくても、できない程の体調で、自宅で安静に寝ていた。父に母を家でしっかり看ること小さな内科に毎週連れていくこと、を父に頼んで家に帰った。