【前回の記事を読む】後頭部を叩かれ「馬鹿者!」主任が失敗する度に怒鳴るワケとは

五、頭はここまで下げるんや! 初めて勤務した会社の主任より

最初の内は、小学生の方が上手で成績が良かった。それに大いに刺激され「負けてたまるか」と競争心が起こり、密かに自宅練習に励んだ。ソロバンに慣れれば加減乗除の四則計算は、簡単に出来た。しかし、乗除の計算は、会社に機械式計算機があったのでそれで計算していた。

当時の会社では、9桁まで(1億まで)の足し算と引き算がスムースに出来れば、十分実用になった。1日でも早くうまくなろうと自宅でもヒマさえあれば必死になってソロバンの練習をしていた。そのお陰で上達も早かった。半年ばかりで9桁の加減の計算が見違えるように早く出来るようになった。それなりの速さで十分実用のレベルになったのでソロバン塾を辞めた。

経理の仕事にも慣れて人にも慣れるに従い会社に行くのが楽しくて仕方なかった。また、入社の面接時、私の趣味は、ラジオの組み立てであることを社長に話していたことが、いつの間にか社内に広がっていた。みんな新しい5球スーパーラジオが欲しい時代だっただけに、従業員の皆さんから、手作りでもいいから組み立てて欲しいと沢山の注文を受けて多忙となり組み立て技術のレベルを上げていった。当時、1500円で部品を仕入れ、3000円で買って貰った。小遣いを稼ぐことが出来た。

六、最後まで頑張るんや 祖父より

昭和29年(1954年)18才の頃、私の毎日曜日は、会社の皆さんから頼まれたラジオの組み立てをして、その収入の一部を家計の足しにして貰っていた。また、昼働いて、夜は、京都市立洛陽工業高等学校電気科定時制(夜学)に往復1時間かけて、自転車通学をしていた。定時制高校は4年間だった。平日の帰宅はいつも夜の10時を回っていた。

定時制高校3年生の時。会社での経理事務の仕事が次第に増えて、仕事の質も高まり超多忙になっていた。職場の皆さんから「棚ちゃん。棚ちゃん」と可愛がられ信頼も得て面白くなっていた。このまま事務職を続けて、この会社で、ずっとお世話になろうかと思うようにもなっていた。

4月、9月の決算期になると多忙な日々が続き、仕事の都合で学校も休まざるを得なかった。どうしても、仕事優先となり勉学は従となっていた。そして、通学が心身共に重荷に感じるようになっていた。気持ちの上では、夜間高校を辞めようかとも思っていた。祖父に相談した。

「何を言うとるか! あと、1年やないか。これまで頑張ってきた勉強を無駄にするな。必ず卒業するんだと自分に言い聞かせ、最後まで頑張るんや。今の学校の勉強はきっと将来役に立つ時がくるから、頑張れや!」

ときつく叱られた。その祖父の一言で奮起した。暑い日も寒い日も雨の日も昼夜を問わず歯を食いしばって4年間頑張り通した。本当に心身共に大変きつかった。心身がよく持つなと思った。