治宇二郎は読むだけでなく書くことも好きであった。周囲からは小説家になるだろうと思われていたようだ。それから二年後、治宇二郎は小塚項平さんに東洋大学にぜひ入学するよう強く勧めた手紙を出した。小塚さんはこう記している。
その年〔一九二二年〕三月のある日、突然、東京の中谷治宇二郎さんから短い手紙をいただきました。内容は「今度、東洋大学で文化学科という新しい専門部を新設されることになった。この講師達はみな一流の人々で、ここへは入学試験なしに入れる。四月から私もここへ入学しようと思っている。君も上京して、一緒に入学しないか。下宿は吉川〔與四次〕君が、小石川区指ヶ谷町の素人下宿の六畳間にいて、しばらく君と一緒に居てもよい、と言っている。許されたら出て来てはどうか」。これまで私は自分と上級の大学などとは一切無縁だと思っていた。上京して自由に勉強する等ということも、考えてもみなかった。それが全く思いがけなく、今すぐ東京で中谷さん達と一緒に勉強できる。私はとび上がってよろこび、母も同様に深く喜び、これまで中学で一級上だった中谷さん達と一緒に天下晴れて、勉強させられる。と、早速に私の晴着として、上等の大島紬(一般の学生などの着られない)の袷の羽織と着物、セルの袴、羽二重の長襦袢を用意し、出発を祝ってくれました。……
文化学科の学課は、仏教概論は校長の境野黄洋、東洋倫理は有名な宇野哲人、文化概論は新進気鋭の「古寺巡礼」の名著で評判の高い和辻哲郎。哲学はこれも新進の「哲学以前」の新著を出した出隆。その他文学概論、心理学、論理学等いずれも有名な著書を持つ大家。ドイツ語もある。こちらが真面目に勉強する気になれば、ゲーテの原書も読めるようになれる。私は満足して一日も休まずに通学しました。
(小塚晃平「遠い日の思い出」)
治宇二郎は一九二二年四月、小塚さんと共に東洋大学に入学し、印度哲学を学ぶことになった。母てるは、宇吉郎が金沢の旧制第だい四し 高等学校を卒業して東京帝国大学理学部に、また治宇二郎が東洋大学に入学したのを機に郷里の店をたたんで芳子を伴い上京し、東京市下した谷や 区数寄屋町八番地(現台東区上野二丁目付近)で呉服を商うことになった。不忍池の直ぐ南である。治宇二郎もしばらく同居したことがあるらしい。一九二三年九月一二日付消印の治宇二郎の手紙(中谷宇兵衛宛て)の差出人住所は、母の「中谷芳商店」になっている。使われた便箋も「西陣御召商丸中屋 中谷芳商店」のものであった。