【前回の記事を読む】芥川賞の立ち上げ人・菊池寛の許で文学の修業した父…その軌跡を追う

第一章 中谷治宇二郎の生涯

 考古学に転向 

東大人類学教室に通う

治宇二郎は東洋大学で学びながら、宇吉郎の学ぶ東京帝国大学理学部の物理学の部屋に足繁く通うようになった。東洋大学は東大に近い本郷竜岡町にあった。宇吉郎を通して、宇吉郎の師、寺田寅彦と話す機会を得るようになる。それは他では得られない学びの場であった。

東大理学部には人類学教室があった。当時は東大弥生門右側の、粗末な木造平家建ての洋館にあった。治宇二郎はそこで考古学の泰斗鳥居龍蔵に出会う。鳥居博士は一八七〇年(明治三)に生まれ、小学校中退後、独学で考古学を勉強し、一九二二年助教授および教室の主任になった。

日本のみならず、海外の考古学的・民族学的調査も行った人として知られる。治宇二郎はこの鳥居先生に師事し、考古学を学び始めた。当時の人類学教室は「助教授鳥居龍蔵、講師石田収蔵両先生だけで、松村(あきら)先生は嘱託として、小松真一さんが助手としておられた」(岡 茂雄「中谷治宇二郎さんと私」『本屋風情』)。

岡 茂雄さん(岡書院)は人類学や考古学の出版の仕事で当時この教室によく出入りし、教室の動きに通じていた。治宇二郎は東洋大学に入った翌年(一九二三年)二月、腸チフスに罹り同大学を中途退学した。そして静養をしながら、兄宇吉郎が勤務する東大理学部の寺田研究室をよく訪ねた。

中学で文学に凝った頃は、将来それで身を立てる事を志していたが、やがてそれは難しいと悟り、宇吉郎に自立の道を相談していた。丁度その頃鳥居龍蔵さんに出会い考古学への興味が湧いたのだと思う。