【前回の記事を読む】東北地方の考古学研究の進展の痛手…治宇二郎が調査報告書を刊行できなかったワケ
岩手県小山田村付近の遺跡調査行
仙台
この三つの原稿を抱えながら治宇二郎はイギリスに留学した宇吉郎に次のような手紙を出している。
この時期、宇吉郎と治宇二郎との間に交わされた手紙は多い。
私の身体は何事も無く、ただ、この夏までに終りたい二つの編纂に追われ家に籠り切りで居る。一つは大学の地名表で、八幡さんと二人でやる仕事。遺跡数一万五千に上る予定。出版されたらこれを土台に二十万分地形図にプロットして寺田先生にお眼にかけたいと思っている。
それから、その分布図を縮写して出版することになっている。八幡さんとで。
もう一つの「文献索引」〔『日本石器時代文献目録』〕は毎日原稿三十枚の予定で書いても今月中には終らない。全部で千二、三百枚。菊版六、七百頁の本になるだろう。こんな仕事は早く終って、夏には東北から北陸にかけて日本海岸地方の遺跡を探そうと思っている。
(一九二八年四月一三日付)
その約四〇日後、治宇二郎は今後の自分の学問についての考えをこう記している。
私は今、仕事の方向で岐路に立っているような気がする。一つは、文化学というようなものの一部と考え、文化の法則を知るを目的とすべきか、一つは石器時代という学の完成に努力し、その東西の連絡を知るを目的とすべきかにある。
前者は文化科学の理論に、後者は実証的な考古学の本格に拠っているものです。もし洋行でもできるとなれば、どちらにより関心を置くべきだろうかと思っている。
(同年五月二二日付)