【前回の記事を読む】「当時としては卓見」西津軽郡森田村の遺跡調査で判明した驚きの事実

岩手県小山田村付近の遺跡調査行

仙台

この後、八月一二日に三戸郡八戸町(現八戸市)入りし遺跡の調査(どこの調査か不明)をした後、東京への帰途八月一五日に仙台市の東北帝国大学法文学部の奥羽資料調査部を訪問した。この間、黒石から七戸までは、当時、東奥義塾を卒業し東京で浪人中の今井冨士雄が同行した。

ちなみに、この調査の結果は『人類学雑誌』第四三巻第八号の会員消息に「七月下旬から八月上旬にかけ東北地方石器時代遺跡調査 主として陸奥・津軽方面」、同巻第一〇号の会報に「例会講演 津軽地方の石器時代遺跡」と記されている。

また、『東北文化研究』第一巻第二号の彙報にも「中谷氏の東北調査旅行」としてこの調査のことが載せられ、津軽での発掘は、本稿に紹介した遺跡以外も含めて二〇か所以上にものぼったという。

全国的な土器の編年体系がほぼ確立され、研究分野が多岐にわたるようになった今と違って、昭和三年という年は、まだまだ山内清男を中心とした研究者による縄文土器編年の枠組作りの最中であった。石器時代の年代はまだ確定されておらず、大雑把なものであった。

また、昭和二五年の文化財保護法施行の二〇年以上も前ということで、地主の許可さえあれば誰でも自由に遺跡発掘ができる時代であったが、坪掘りという試掘調査程度の小面積の調査であったにせよ、一〇日間ほどで、この頃に東京帝国大学から出版された「日本石器時代人民遺物発見地名表(第五版)」(一九二八年)に掲載された津軽の遺跡を二〇か所以上も調査したというのは、蒲柳の身の中谷にとってはまさに、情熱のなせるわざであったとしか言いようがない。

しかも、各地で村長以下さまざまの人々の協力が得られたことも、現在ではあまり考えられないことであろう。中谷はこの調査中、方眼紙を貼った手製の遺物カードをたえず持ちスケッチを続けていたが、その研究態度に、同行した今井は感心している。時に、中谷治宇二郎二六歳、今井冨士雄一八歳の若き日の一こまであった。

 

中谷は、「人類学雑誌」第四四巻第三号の報文末尾に、この調査行の正式な調査報告書をまとめるには今後、数年かかるため、多くの人々の協力をお願いしたい旨記している。

しかし、治宇二郎には、この報告書を刊行するだけの時間的余裕は残されていなかった。これは中谷のみならず、青森県や東北地方の考古学研究の進展にとってもまことに残念なことであった。

亀ヶ岡で発掘した優品は現在東京大学総合研究博物館に保管されている。なお、オセドウ貝塚の調査については、奥田順蔵さんの子息が今井冨士雄さんと中学の同級生であったことから奥田さんの協力があったものと思われる。今井さんは治宇二郎と交流があり、生涯にわたり治宇二郎の研究の協力者であった。

治宇二郎は帰京後、九月二二日に「津軽地方の石器時代遺跡」と題して第四一〇回東京人類学会例会で講演した。一〇月一六日、次女洋子誕生。その頃、セツは東大の聴講生を修了した。