【前回の記事を読む】文学から考古学へ…近代日本の文豪にも一目置かれた父が転向!きっかけとなった人物とは
中谷治宇二郎の生涯
大震災発生後間もなく、治宇二郎は東京人類学会に入会した。一八八四年(明治一七)に設立され、後の日本人類学会の母体となった由緒ある学会である。考古学を学ぶに際して一つの足場を築くことができたと言えよう。
翌一九二四年二月、郷里石川県の玉造遺跡(玉作という表記もある)の発掘調査をし、「石川県江沼郡作見村字片山津の弥生式遺跡」と題して『人類学雑誌』三九巻二号に発表した。郷里における発掘調査の報告はこれが唯一のものである。
加賀市の郷土史家であり、郷里の文化活動に尽くした高倉豊吉さん(加賀市議会議員)はかつて私宛ての手紙で次のように言っている。
「若い頃、〔治宇二郎と〕一緒に近所の遺跡を発掘したことがある。偶々大学の休暇で帰省せられた際、小生の部落の後方にある丘陵地を散策して、石せき鏃ぞく・石斧・碧三片等を採取せられ……後年、市からの資金を得ての大々的な発掘の基になった」(一九七二年八月三〇日付)。
私は加賀市教育委員であった小森秀三さんの案内でこの片山津遺跡を訪ねたことがある。当時は広い畑の中に「玉造遺跡」の標識が一本立っているのみで、発掘当時を偲ぶものは何もなかった。
東京帝国大学理学部人類学科選科に入学
治宇二郎は一九二四年(大正一三)四月、東京帝国大学理学部人類学科選科に入学した。当時、人類学科は「選科」しかなく、人類学教室と呼ばれていた。人類学科選科が本科になったのは一九三九年(昭和一四)のことである。
治宇二郎は従弟の宇兵衛への手紙に「先生一人に生徒一人」と書いている(一九二四年六月二日付)。鳥居教授はこの年の六月、東京帝国大学を辞職したので、ここでいう「先生」とは後任の松村瞭助教授である。大学入学を機に宇吉郎と治宇二郎は東京市下谷区上野桜木町三六番地(現台東区上野桜木)の真島家で下宿生活を始めた。
私はてる、芳子が商売をしていた旧上野数寄屋町と、宇吉郎、治宇二郎が下宿していた上野桜木町界隈を歩いたことがある。無論すっかり様変わりしていたが、旧上野数寄屋町には当時芳子と付き合いのあった老舗の店がまだ残っていて当時をいくらか偲ぶことができた。