【前回の記事を読む】芥川龍之介と菊池寛がべた褒めした「一人の無名作家」とは?
第一章 中谷治宇二郎の生涯
中学卒業後の変転
治宇二郎は小松中学を卒業すると、短期間だが郷里の作見小学校で教鞭をとった。また、金沢新報社にも勤めた。同社の記者としてシベリアに派遣され、「尼港事件」のその後を取材した。間もなく新聞社を退職し、しばらく横浜市の親族、洋服商の柴田家に世話になった。
また、菊池寛の許で文学の修業もしたらしい。井口哲郎さんの調べによると、一時は歌舞伎の初代中村吉右衛門の後援会誌『揚幕』の編集にも携わった記録と、新劇の舞台に立つ写真があるという。
一九二〇年七月には、観光地として売り出し中の片山津温泉の自然、名所案内、旅館や商店等を写真入りで紹介した『片山津温泉』という小冊子を企画し、丸中屋から発行した。中谷武子が保存していた小冊子で、表紙には「中谷杜美案」とある。
「案」とは「編集」の意であろう。愛する郷土を広く知らしめ、観光に一役買おうと相当な思い入れを持って自ら執筆したように察せられる。冒頭の「めぐまれし自然」は次のような文で始まる。
遠く中国より続いた白山火山脈は、山陰北陸の地を劃して、加賀に到って特に八千九百尺の高陵をかたちづくって居る。
加賀は古来この山脈の影響を受けて、他境に異った文華を有する楽土であった。その国内は、数多の千古の雪をとかした流れを持ち、山と水との美をほしいままにし、舟行の便を持った。中にも入口に近い動橋川は、源を大日山中に発して鮎住む清冷の流れとなり江沼平野を灌漑して日本海に注いだ。
その下流に発達した柴山湖は東西二里、南北一里、三方は丘陵地につつまれ湖面素絹にも似て白鷗の夢驚かす浪もなく、常に死の静寂をただよはせた。
そうしてやがてあふれた水は、串、今江の低地を得て、木場今江の二湖を連ねて梯川に會し、安宅の海に流れ出た。
その反対の南岸には、大日支脈の余波がせまって湖に没している。昔しは一筋の往還さへも通ぜずして、山腹に生ふる松の一枝が、岸の蘆に触れ合ふ程な所であった。海岸街道(木曽街道とも云ひ現に所々海に没して残れり)から国道小松宿へ達する人は、ここから船によって直ちに小松へ渡った。「片山の津」それはこうした人々によって呼ばれた名である。(原文通り)
(中谷杜美「片山津温泉案内」『片山津温泉』)