【前回の記事を読む】大河ドラマで完結しない。さらに前進するための歴史学とは

第三節 明治維新の前に知っておきたい幕末の歴史

第一項 豊臣秀吉による全国統一の意義

 徳川家康の江戸幕府政権に対する疑問点 

・疑問その一

徳川家康は「朝廷」から征夷大将軍の宣下を受け、江戸に「幕府」を開設したという解釈は正しくない。家康は自力で以て自前の「幕府」を開設したのであって、朝廷から付与、又は任命されたものではない。朝廷や天皇家は武家政権に対して、本来的に得心していなかった。天皇は京都洛中に今日も御所がある。徳川幕府の時代に天皇が下向したことはないという点を指摘して、徳川幕府の非公認政権の様な解釈があるようだ。

従って、此の説によれば、大政奉還も王政復古もない日本史ということになってくる。その学説が正しいということになれば、何故、大政奉還や王政復古の用語を教科書に記載するのか。日本の歴史は永きに渡って誤釈を使い、国民教育をしてきたのであろうか。

・疑問その二

「徳川幕府が豊臣政権を関ケ原に破り、勝手に為政者もどきを振る舞った」とするならば、武家政権として源頼朝以来の鎌倉幕府や足利尊氏の室町幕府はどのように解釈すればよいのか。

これらの武将たちは征夷大将軍に宣下された文書はある。然し朝廷から見れば、本心から野暮で下品な武士たちに、為政者として実権を与えていないのに、見逃してやっていたとでもいうのか。ならばそのように論旨をもって、教壇から教師はそのように何故語らない。全く笑止な話である。

朝廷や天皇家に往時において、そんな統治力や力量があったという学説を聞いたことはない。

・疑問その三

禁中(きんちゅう)(ならびに)公家(くげ)諸法度(しょはっと)」は徳川幕府によって制定された天皇、公家や朝廷の行動や暮らし向きを監視する為の法律であり、荘園領地の収益以外にも時の徳川将軍に公卿を送り、その都度(つど)〳〵(つど)に日々の暮らし向きが覚束(おぼつか)ないからと年間の(まかな)金子(きんす)の交渉に明け暮れた事情は何と理解しよう。勅使・院使・女院使の徳川幕府に懇願してきた、恒例の江戸下向はなんと説明したらよいか。

この饗応接待がなかったら、赤穂浪士の吉良討ちもないし、忠臣蔵の歌舞伎・浄瑠璃も大河ドラマも事実でないことに日本国民は拍手してきたのか。

先行学者の高等な学術論は自由であってよいが、これまでの事実であると思い学習してきた我々の心情と認識を否定するならば、一部の学者の意見に留まらず、公の場所の学術会で大きく扱われるべき案件ではないかと直言したい。筆者の知るところでは、明治天皇が「赤穂浪士は日本武士道の手本として、諸説あるものを、一気通貫の君主に最大の敬意を払う赤穂義士達の群像として称賛せよ」と明治時代のある新聞社の代表であり、議員であった人物に(まと)めさせたという事実も文書も見聞した。

一般大衆が日本史に関心が薄れるとしたらここら辺である。何でもありで一〇〇人寄れば表現の自由で一〇〇通りの説が並び、それも良しとする百家争鳴(ひゃっかそうめい)の状態にあっても、大いに盛んで宜しいという姿勢の学術会のあり方にも一因があるのではないかといらざる危惧をする。