アヘン戦争
イギリスの中国貿易は中国茶を中心に絹・陶磁器など輸入量は年々増加しましたが、その見返りとして輸出しようとした毛織物などはあまり売れなかったので、毎年、多額の銀が中国に流出していました。この東インド会社の片貿易に対して、イギリス議会の一部から強い批判が巻き起こりました。
そこで東インド会社は銀に代わる決済手段を見いださねばならなくなり、思いついたのがインド産のアヘンを介在させたインド─中国─イギリスの三角貿易でした。
まず、東インド会社は、インドの二州に限定してアヘンを専売制とし、耕作者にケシを栽培させ、アヘン精製工場で精製・検査し、それをカルカッタで競売に付す。当時、清国はアヘン貿易を禁止していましたので、インドで買い付け中国市場で売るのはあくまで特許を得た地方貿易商人にやらせる。その商人はインド産アヘンを中国のカントンで販売して銀を入手する。この銀は東インド会社カントン財務局に払い込んで、東インド会社の為替手形を購入する。地方貿易商人にとって為替送金の方が銀をそのまま送金するよりも有利になるように為替率を操作してすべてそうさせる。
この銀で東インド会社は中国の輸入茶の代金を支払う。結果的に、インド(アヘン)→中国カントン(茶)→イギリス(綿製品)→インドという三角貿易が完成し、それまで片貿易だった中英貿易も一七八〇年代以降解消され、銀の一方的、流出という事態も解消されました。
清国はもともとアヘンを禁止する政策を取っていました。イギリスが前述しました組織的な中国へのアヘン輸出に乗り出す前はポルトガル人がやっていましたが、その量は、過去一世紀の間、毎年、約二〇〇箱ぐらいで、アヘンの一箱(約六〇キロ)はアヘン中毒者一〇〇人が一年間に吸飲する量に相当すると言われましたから、二〇〇箱は二万人分に当たりました。当時、おそらくそれくらいのアヘン中毒者が福建省や広東省の沿海地方にいたのでしょう。
ところが、イギリスが組織的にインド産アヘンの密輸入を行うようになると、中国各地に大量のアヘン中毒患者が出て国民の健康などに大きな悪影響をおよぼすようになりました。アヘン戦争勃発の直前、一八三八年の流入量は約四万箱(四〇〇万人分)まで増大していました。四〇〇万人分ともなると、ちょっとした一国分の人口であり、清国もほうっておけなくなりました。
道光帝(在位:一八二一~五〇年)は、改革派官僚のリーダー格だった湖広総督(湖北・湖南二省の行政長官)の林則徐(一七八五~一八五〇年)をカントンに派遣しアヘン貿易を禁絶させようとしました。
一八三九年三月にカントンに着任した林則徐は、アヘン商人に対して、現在持っているアヘンをすべて提出すること、将来、永遠にアヘンを中国に持ち込まないという誓約書を提出することを要求し、二万余箱のアヘンを押収、珠江河口近くの高台で衆人監視のもとでそれを二〇日かけて焼却処分しました。