序章
西暦六二八年、わが国初の女帝、第三十三代推古天皇は在位三十六年、七十四歳にして崩御した。この時、日嗣皇子が定まっていなかった。候補に挙がったのは厩戸皇子の長子、山背大兄王と敏達天皇の孫にあたる田村皇子であった。山背大兄王の母は蘇我馬子の娘、刀自古郎女である。時の大臣、蘇我蝦夷は当然自らの異母弟にあたる山背大兄王を推すものと思われた。しかし、蝦夷は重臣たちに諮って田村皇子を即位させた。
田村皇子は三十七歳。対して山背大兄王はまだまだ若年であったため、強引にこれを即位させるには無理があったようである。田村皇子は即位して第三十四代舒明天皇となる。
天皇には既に二人の妻がいた。一人は寶皇女。父系では敏達天皇の曽孫、母系では欽明天皇の孫にあたる。今一人は蘇我馬子を父に持つ法提郎媛である。王家の血を引く寶皇女は后となり、法提郎媛は夫人と呼ばれる。身分の上では「后」は皇后にあたり、次が「妃」。「夫人」はその下という序列になる。
寶皇女との間には三人の子がいた。中大兄皇子、間人皇女、大海人皇子である。寶皇女は再婚であったため三人の子はすべて三十歳を過ぎてから生んでいる。一方、法提郎媛にも男子が一人いた。古人大兄皇子である。ちなみに「大兄」とは長男(母が違えばそれぞれの)に与えられる呼称で、一般には大王を継ぐ資格があることを示す。しかし実際に大王となりえた例はあまり多くはない。
舒明天皇は西暦六四一年、在位十三年で崩御する。この時も日嗣皇子が定められていなかった。候補となったのは前回も名が挙がった山背大兄王と舒明天皇の皇子である古人大兄皇子、それに寶皇女10の弟、軽皇子の三人である。
重臣たちの意見はまとまらず、やむなく后の寶皇女を立てて史上二人目の女帝とした。第三十五代皇極天皇である。女帝在位の間に誰が跡を継ぐのにふさわしいか見極めようというのだが、これが後の血なまぐさい事件を生む。皇位争いの後回しに過ぎなかったと言える。