ところで、中大兄皇子が候補に入らなかったのはまだ十八歳という若年だったからである。飛鳥時代までの皇位継承はその年齢が大きな条件になっていた。正確に言うと天皇にふさわしい「徳」があるかどうかということが重要であった。天皇は権威も権力も併せ持つ唯一無二の存在であらねばならないとされるため、自身で政治(まつりごと)を行えるだけの資質が問われる。

天皇に直系の男子がいても若年であれば徳が未だ備わっていないとみなされ、後の時代のように幼帝の登場などはありえなかった。およそその年齢の目安は三十歳以上。特殊な事情がない限り、それ未満では群臣の合意が得られなかった。となると、大王が亡くなった場合、その皇子が若年であれば、必然的に直系継承よりも兄弟継承の例が増えることになる。例を挙げる。

第十七代履中(りちゅう)→第十八代反正(はんぜい)(弟)→第十九代允恭(いんぎょう)(弟)

第二十代安康(あんこう)→第二十一代雄略(弟)

第二十三代顕宗(けんぞう)→第二十四代(にん)(けん)(兄)

第二十七代安閑(あんかん)→第二十八代宣化(せんか)(弟)→第二十九代(きん)(めい)(弟)

第三十代敏達(びたつ)→第三十一代用明(弟)→第三十二代崇峻(すしゅん)(弟)→第三十三代推古(姉)

第三十五代皇極→第三十六代(こう)(とく)(弟)→第三十七代斉明(姉)

かくの如き兄弟継承の多さであって、皇位継承は直系よりも兄弟が優先されていたという事実がわかる。このように飛鳥時代までは、「徳」の有無を重視するため、「年齢の制約」と「兄弟継承が直系に優先する」という不文律があった。

そして、この不文律を反故同然に捨て去り、自らの直系優先を押し通したのは第四十一代持統天皇であった。天武、持統の時代に入ると諸大夫の合議ではなく、天皇の一存で政治を動かすことが可能になっていたことの証左でもある。

もう一つ、ここまでの説明で使ってきた「天皇」という称号。これは唐の高宗が一時使用した記録があるが、わが国では天武天皇の御代から使われ始めたものというのが通説となっている。それ以前は長く「大王(おおきみ)」と呼ばれてきた。

そのため、この物語でも次章以降、弘文(こうぶん)(大友皇子)以前、天武が天皇号を使用するまでは大王とし、皇子(みこ)皇女(ひめみこ)などの称号もそれぞれ、王子(みこ)王女(ひめみこ)と表記する。ただし、どの大王かを明確にするため、便宜上「斉明」、「天智」など後世定められた漢風諡号(かんふうしごう)を使用する。

さらに、わが国の国号についても、海外、主に中国に対して「日本」と認めさせたのは唐の女帝、武則天(ぶそくてん)の時代であるため、それまでは「(やまと)」、あるいは「()(こく)」との表現をお許しいただきたい。

この物語は持統天皇が産声を上げた六四五(皇極在位四)年から始まる。