男の評判は村では悪いものではなかったから、誰もがおめでたいと思った。綺麗な女との婚姻を、誰しもが男の亡き母に見せたいと思ったことだろう。
ふたりの生活は順調であった。女は身の回りの世話においても畑仕事においても、よく男を支えていた。
けれど、しばらくすると女の不思議な行動が目につくようになった。女は毎朝、男が目覚める前に必ずどこかへ出かけていく。どこへ行っていたのか聞いても、ただ返事を濁すだけ。夜明けとともに湖へと行く姿は他の村人にも見られているようで、人間離れした美しさから実は妖怪の類なのではないかという噂すら出ていた。
武士として人として、そのような魍魎と一緒にいることはできない。流石に妖怪ということは信じていなかったが、不義の逢瀬というならば話は別である。疑念を解くことは女のためにもなることなのだ。自らにそう言い聞かせ、男は明け方、家から出て行こうとする女に「どこへ行くのか」と声をかけた。
目に見えて狼狽する女に、村で流れている噂を説明する。
毎朝どこで何をしているのか、とにかく落ち着かせて話を聞こうとしても、女は「行かせてください」の一点張り。具体的なことは伏せるので、まともな話し合いにもならない。それどころか女はそわそわと外を気にする素振りを見せて、どうやら焦っているようだ。その様子に男の心に暗いものが差し込んだ。
一瞬の隙をついて外へ飛び出そうとする女。男はその羽織を掴むも、女は羽織を脱いで湖の方へと向かってしまう。
どうしてこのようなことになったのだろう。沸々と湧き上がる黒い情念とともに、男は用意してあった刀を手に持つと女を追いかけた。湖へと至る道すがら彼女に追いつき、その背中を抱き止める。
「行かせてください。どうぞ、行かせてください」
「ならぬ。どうしても行くというのなら、己はお前を斬らねばならぬ」
「行かせてください。どうぞ、行かせてください」
「疑念を解かねばならぬ。お前が妖でないのなら。お前が不義を為していないのなら」
「わたくしは……わたくしは……あなた様をお慕いしております。嘘偽りなく愛しております」
「だから、だからこそ」
「どうぞ、お願いです。行かせてください」
脅しのつもりであった。軽く血を見れば足を止めるであろうと。もう手放したくない。孤独に戻りたくない。愛している。この美しい女を愛している。
刃を振り上げ、その白く細い脚を斬りつける。
あっ、と思った瞬間にはもう遅い。人を斬ったことのない男であったから、慣れない行為に手元が狂ってしまい、女の脚を深く斬りつけてしまう。痛みに呻く女の声が束の間聞こえた。手に残された柔らかな肉を斬る感触が、男を責め立てる。
男は女を介抱しようとしたが、脚を引きずりながらもなお進んでいく女に唖然としてしまう。
「どうして……そんなになってまで……」
男には彼女の行動が理解できなかった。雪に冷やされて黒くなった血痕を見ると、追いかけることができなくなってしまった。