Ⅰ- 4 マンハッタン計画と核兵器
1. 核兵器を生んだマンハッタン計画
マンハッタン計画は、第二次世界大戦中、アメリカで行われた核兵器の開発計画です。本部がニューヨークのマンハッタンに置かれたので、「マンハッタン計画」と呼ばれています。
この計画で開発されたウラニウム爆弾とプルトニウム爆弾がそれぞれ広島と長崎に投下され、日本が世界で唯一の被爆国となりました。核兵器は、戦後の世界の戦略体制の中軸となって今に至っています。
この計画は戦時下で強引に進められましたが、当時の科学者、技術者を総動員し、大量の資金を投入して短期間で新しいものを作り上げたという、すさまじい技術開発の典型でもあります。また、その指揮を執ったのは、科学者でも技術者でもなく、文系の軍将です。
ここでは、いかに科学者・技術者を総動員して技術開発に至ったかを学ぶとともに、人類は技術をどう創り、活用していくべきかを考える重要な課題として取り上げたいと思います。
原爆の開発は、物質がエネルギーに変わるという物理原理を発見した科学者によるものと思っている人が多いかもしれませんが、決して科学者の力だけでできるものではありません。科学的知見が技術として実現するためには、技術者の力が不可欠です。とても大勢の技術者が参加して原爆が作られたのです。
マンハッタン計画の起こりは、第二次世界大戦において、ドイツからアメリカに亡命したポーランドなどの物理学者3名が、「ナチスドイツが核兵器を開発するかもしれない」という脅威から、アインシュタインにルーズベルト大統領向けの手紙を書くように依頼したところから始まります。
1939年にベルリンで初めて核分裂が発見されました。それは目に見えないほんのわずかの物質がエネルギーに変わるという発見でした。しかし、核分裂の際の物質がエネルギーに変わる際に発するエネルギーの大きさは莫大なものであることが確認され、このエネルギーを爆弾に応用すれば、大変な威力を持つ兵器となることを予測することができました。
そこで、「ナチスドイツが核兵器を開発する前にアメリカが先に開発しておく必要がある」と訴えたのです。その後しばらくは、まともには進まなかったのですが、1941年9月にイギリスから「原子爆弾を作るのは可能だという結論に達した」というイギリスの科学者の委員会の報告書が届けられたのを契機に、ペンタゴンの建物建設で功績を上げたレズリー・グローヴス大佐が司令官に任命され(任命後に准将に昇進)、本格的な開発がスタートしたのが「マンハッタン計画」です。
グローヴスはまず、当時考えられていた核兵器実現のための技術の状況について調査しました。核分裂のエネルギーを用いた爆弾の可能性としては、ウラン235を核分裂させる方法と、プルトニウムを核分裂させる方法の二つが考えられていました。このうち、ウラン235を核分裂させるには、天然ウランのなかに0.7%しか入っていないウラン235を90%以上まで濃縮して、約3kgのウラン235を得る技術が必要でした。
一方、プルトニウムを核分裂させるには、天然ウランを用いて核分裂が連続的に起こる臨界反応を作り、その反応から生成されるプルトニウムを取得する技術開発が必要でした。時は戦争中で開発が急がれます。グローヴスが取った方策は、「可能なものは同時並行で開発を進め、短期間で完成させる」というものでした。
マンハッタン計画の流れを[図表1]に示します。
またこの計画の推進体制と、関わった主な人や企業を[図表2]に示します。