【前回の記事を読む】加熱する法隆寺の再建・非再建論争。発掘調査でまさかの発覚!?
論より証拠
その後
発掘調査の後、天智紀の天智天皇九年(六七〇)四月三十日の法隆寺大火災の記事については、若草伽藍が発見され、加えてそこに火災の痕跡が確認されたからには、多少の不可解さは残るものの、事実として受け入れなければならないという風潮が関係者の間で強まっていきました。
そして、今日でも研究者の多くは、『日本書紀』の記述に多少の疑念を残しているのですが、それを覆すだけの裏付けが見つからないため、不本意ながら、天智天皇九年(六七〇)四月三十日の法隆寺大火災の記事を事実として受け入れなければならないのかと、ほとんど諦めかけているのです。
たしかに、若草伽藍の発見によって現在の法隆寺が再建されたものであることについては一定の結論が出され、大きな問題の一つは解決されました。その結果、研究者たちは非再建論を口にすることができなくなり、法隆寺の非再建論は大きな誤謬と判定され、過去のものとして忘れ去られていく運命となりました。若草伽藍の発見という動かぬ証拠の出現による当然の帰結といえます。
しかし、若草伽藍の発見によって法隆寺大火災に関する問題は完全に解決したと考えるとすれば、それはあまりにも軽率です。若草伽藍の発見は法隆寺研究にとって大きな前進であったことは間違いありませんが、若草伽藍が発見されたことで問題がすべて解決するほど、法隆寺問題は単純ではないのです。
たとえば、創建法隆寺である若草伽藍が飛鳥時代のある時点で完全に焼失したとするならば、
①それは天智紀が伝える天智天皇九年(六七〇)で間違いないのか、
②もし仮に、天智天皇九年(六七〇)四月三十日に焼失したとするならば、いつ誰が法隆寺の再建に着手したのか、
③現法隆寺の敷地は山裾を削り、谷を埋めて造成されているが、その莫大な費用はどのように工面したのか、
④なぜ法隆寺の再建が一切記録に残っていないのか
など、再建という部分に限定しただけでも、何も分かっていないのです。
また、若草伽藍が発見されたことで、現在の法隆寺が再建されたものであることに間違いはないとしても、金堂の様式が飛鳥時代の古いたたずまいを残しているという事実は依然として消えていないのです。再建・非再建論争の過程で示された様式の古さの問題は、今も不可解な疑問として厳然と残っているのです。