つまり、昭和十四年(一九三九)十二月の発掘調査によって、創建法隆寺である若草伽藍は火災に遭い、現在の法隆寺はその北西二百メートルほどの場所に再建されたものである、ということは否定できない事実と判明しました。
しかし、発掘調査で判明したのは法隆寺の前身である若草伽藍が嘗存在し、その若草伽藍は火災に遭っているというところまでであり、若草伽藍で確認された火災の痕跡が天智天皇九年(六七〇)四月三十日の大火災によると証明されたわけではありません。
また、その火災の痕跡は、天智紀が伝える一屋も余すことなく燃え尽きたという記述を裏付けているわけでもないのです。若草伽藍の発見は大きな成果であったことは間違いありませんが、それで法隆寺の問題が解決したわけではないのです。
むしろ、若草伽藍の発見によって、法隆寺に関する火災問題や再建問題の複雑さや困難さがより鮮明になったというのが正直なところなのです。若草伽藍が発見されたことで、法隆寺が抱える複雑な問題の入り口に立つことができただけであり、問題の全貌はほとんど把握できていなかったのです。
このような背景から、昭和四十三、四十四年(一九六八、六九)、改めて若草伽藍の発掘調査が行われることになりました。この調査は西院南面の石垣の解体修理と併せて行われたものですが、若草伽藍の発見以降に生じた疑問を解明するため、回廊や講堂の位置も調査の対象に加えられることになりました。
ところが、この二度目の発掘調査そのものは予定どおり終了したのですが、その発掘調査の結果が、『法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告』として公表されたのは平成十九年(二〇〇七)三月だったのです。
なんと、発掘調査の開始から報告書の公表まで四十年近い歳月が費やされていたのです。この四十年ほどの間に何が起きていたのでしょうか。報告書の発表が遅れた事情は公表されていません。
四十年といえば、携わった研究者のほとんどが入れ替わるくらいの期間になります。おそらく、調査データを整理する過程で過去の知見との矛盾がいくつも明らかになり、結果の評価において研究者の間で相当な意見の食い違いが生じたものと想像します。
つまり、矛盾だらけのままで報告書として発表することは信義に反することから、報告書として最低限の体裁を整えるために、四十年近い歳月を要したということなのです。たとえば、『法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告』(頁一五五)には、軒瓦に関して次のような記述があります。