【前回の記事を読む】法隆寺再建論争。調査で若草伽藍と火災の跡が発見されるが…

論より証拠

その後

『日本書紀』天智天皇九年条の「夏四月癸卯朔壬申、夜半之後災法隆寺、一屋無餘、大雨雷震」という記事が、法隆寺若草伽藍の焼亡の証左であると指摘されて久しい。

石田茂作は若草伽藍跡の発掘調査によって、伽藍中枢の配置を解明し、出土瓦の年代を飛鳥時代に比定したが、その際、出土瓦に「赤色焼瓦の混ずる事によって、嘗て火災に遭遇してゐる事も察しめる」と述べている(「法隆寺若草伽藍址の発掘に就て」『日本上代文化の研究』法相宗勧学院同窓会)。『日本書紀』の罹災記事と結び付く可能性のある遺物が、その時点で初めて出土したことになる。

さて、本調査における出土瓦についてはどうであろうか。石田の述べる「赤色焼瓦」という瓦が具体的にどのような状態の瓦を指すのか知り得ないが、今回の調査において明瞭な被熱痕跡のある軒瓦は1点も存在しなかった。これは丸瓦・平瓦についても同様の状況である。

「赤色」部分にのみ注目すると、それに近い橙色の色調を呈する軒瓦が若干存在するが、二〇〇四年に行われた若草伽藍跡西方の発掘調査で出土した「溶けた金属や土などが付着した瓦や、火にかかって発泡して軽くなった瓦」(斑鳩町・斑鳩町教育委員会二〇〇四)のようなものであるとはいえない(下線筆者)。

つまり、この記述は伽藍中枢部の二回目の発掘調査において、一回目の発掘調査で石田氏が見たような明瞭な被熱の痕跡を残す瓦や、平成十六年(二〇〇四)に斑鳩町などが若草伽藍跡西方で行った発掘調査で出土した発泡して軽くなった瓦など、激しい火災の痕跡を示す瓦は一つとして出土しなかったことを伝えています。

天智紀の記述を信じれば、天智天皇九年(六七〇)四月三十日夜半過ぎ、若草伽藍の建物は一屋も余すことなく燃え尽きたのであり、その後、若草伽藍の敷地を放棄し、新しい敷地に現在の法隆寺を再建したわけです。

ところが、発掘調査の結果から見れば、若草伽藍の敷地を放棄し、別な場所に再建するにもかかわらず、元の敷地に落ちた瓦の破片のうち、焼けた破片だけを一つ残らず拾って片付けたということになります。実務作業において、こんな無駄なことをするのでしょうか。

つまり、二回目の発掘調査において、瓦の破片の中に火災の痕跡を残すものが一つとして出土しなかったことは、天智紀の大火災記事を正しいとする立場にとって、きわめて不利であることを意味しているのです。