【前回の記事を読む】暴挙を起こす義仲…討伐軍に入った義経の決意と真の狙いとは?

義仲と行家

範頼軍の動きを見ていた義仲の観測では、決戦は翌日と見た。

しかし、義経軍が早くも宇治から侵入したと聞き、急ぎ東洞院の仮御所へ向かった。法皇を北陸に同道してそこで再起を図ろうというのである。だが、門は固く閉じられ、「旭将軍である」と配下に言わせ、自らも「義仲参りました」と声をかけても静まり返って開く様子がない。力ずくで開けるには時がかかる。

逡巡している間に騎馬武者が二、三十騎駆けてくるのが目に入った。鎌倉軍が来るには早すぎる、しかし身に着けている甲冑も乗っている鞍も木曽のものではない。

この時、義仲は法皇の拉致を諦めて、兄弟のように育ち片腕と頼む今井兼平が守る瀬田に向かった。もう一方の片腕樋口次郎兼光と主力を行家なんぞの討伐に派遣したことを激しく後悔したがもう遅い。

六条河原で義経軍と遭遇し、戦力を更に削がれつつ粟津に出た。そこで、今井兼平と合流できたが、深田に馬の脚を取られもがくところを兜の目庇めびさしの下を矢で射ぬかれ絶命した。

『義経とは何者ぞ』

都のだれも知らない。もちろん宮中でも院でも聞いたことがない。ただ、頼朝に派遣された鎌倉先遣軍の大将で、雲隠れの上手い若者ということを噂では聞いている。その源義経が、いきなり法皇の前に現れた。

義経は渡河後直ぐに第四組の内三十名ばかりを割き、河越重頼に預けて東洞院の仮御所の守備に向かわせた。義仲が見た鎌倉軍である。

六条河原での戦闘で勝敗が明らかになった後、粟津に逃れる義仲の追跡を、郎党と配下の鎌倉軍に任せ、鎌倉武者の主だった者を率いて仮御所へ向かった。義仲が去ったことを知らない仮御所では、まだ固く門を閉じていたが、河越重頼は門前に武者達を配置して、御所に恐怖を与えぬよう音を立てずに警護した。

恐る恐る塀の外の様子を窺いに出た法皇の側近が、重頼らには気付かず第二段の騎馬武者が駆けて来るのを、登った木から見かけ、下で待つ仲間に小声で伝えた。

「南の方より白旗を靡かせて騎馬武者が六騎、更に続いて三十騎ほど駆けてまいります」

伝達された情報を受け、内から訊ねてくる。

「鎌倉も木曽も白旗ぞ、どちらだ」

「木曽殿は先ほどまで門前で騒いでおりましたが。いや、笠印は木曽と違いまする。東国の兵かと」

「院に伝えてくれ。木曽ではなさそうだと」

そんなやり取りを続ける内に騎馬武者たちが門前に到着した。

「河越殿、院は御無事か」

「私が到着した頃、一団の武者たちが駆け去るところでした。その後は、内外とも動きはありません」

「良かった。何か内から問うては来ませぬか」

「静まり返っております」

そんな会話が聞こえて、側近は屋敷内に飛び込み、躓き転びながら報告した。

「木曽弁ではありません。鎌倉軍です」

すぐに奥の法皇の耳に入った。潜んでいた部屋から飛び出した法皇は涼やかな声を聞いた。それも、恐怖心を起こさせないように気を使ったものだ。

さきの右兵衛すけ源頼朝が弟、九郎義経、参上つかまつりました」

「頼朝の配下だ、早う門を開け、招き入れよ。早う早う」