法皇は中庭に履物も履かずに飛び降り、中門の格子戸の傍まで出て一行を待ち受けた。招き入れられたのは、大将と思われる意外と小柄で、如何にも機敏で英知溢れた若い武将と、これに従う五名の若武者たち、そして温厚篤実そうな四十歳くらいの武将だった。
先頭の九郎義経と名乗った者の出立は、赤地の錦の直垂に紫裾濃 の鎧を着て、黄金造りの太刀を佩く際立つ美丈夫だった。そして、見ると切斑の矢を負い塗籠籐の弓の鳥打部分に幅一寸位の紙を巻いていた。この紙は指揮を執る大将の目印のようだ。
門前守備の武将と義経に従ってきた五人の鎧の色は様々だったが、皆日に焼けた精悍な顔付きで、人品骨柄いずれ劣らぬ者達に見えた。
法皇は格子戸からその者たちに直接声をかけた。
「なかなか雄々しい者たちかな、東国から来た者たちか、皆名を申せ」
仮御所からの声で大将はじめ一同が跪き、畏まった。坂東武者達はまだ合戦中であるため兜は取らず、大将から名乗りを上げた。
「源頼朝が弟、九郎義経にございます」
「ん、歳は」
「は、二十六になります」
「畠山庄司次郎重能が嫡男、畠山庄司次郎重忠、二十歳にござります」
「河越重頼が嫡男、河越の小太郎重房、十七歳」
「渋谷三郎庄司重国が嫡男、渋谷右馬允重助、二十二歳」
「佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、二十五歳」
「梶原平三景時が嫡男、梶原源太景季、二十三歳」
最後に義経のやや後ろに控えていた武将が名乗った。
「畠山が一族、河越太郎重頼、三十五歳」
義経が一言加えた。
「河越重頼は、六条河原合戦から我々より先に駆けつけまして、東洞院をご守備いたしておりました」
「そうであったか、よくぞ守ってくれた、礼を言うぞ……若武者たち見事であった、よく来てくれた、待ちかねておったぞ」
それぞれ義経の家臣ではなく頼朝が義経の配下に付けた坂東武者の中でも選りすぐりの精鋭達だった。この後の戦では義経配下から外れている。梶原景季の父景時はこの後も義経に付けられて軍監として従軍したが、遂に互いに理解し合う仲にはならなかった。
景季は後に義経と不和になった頼朝の命令で偵察のため都に送り込まれ、義経に不利な報告をすることになったが、ここでは颯爽たる若武者だった。法皇はじめ居合わせた公卿公家たちは一様に安堵のため息を漏らした。やがて、恐れていた義仲の死と木曽勢が殲滅された知らせが入ると、御所内からも都の庶民達からも歓喜の声が上がった。
これが歴史上に義経が登場した瞬間である。静との出会いはこれから約八か月後であった。
義経が佩いていた黄金づくりの太刀は、秀衡から贈られたもので、この後義経の象徴となる。義仲が追い詰められて琵琶湖畔の粟津で討ち死にしたのち、範頼も都に入り法皇に拝謁したが、その凡庸さは義経の英知と気品をより際立たせることになった。