【前回の記事を読む】初夏の宵の口、男はSNSで「順風で健全な足跡」を眺めていた

Wish You Were Here

十日ほど経った日の夕方、男の携帯電話にその友人の妻から、片言の英語で呼び出しがあった。キッチンの蛇口の根元からかなり水漏れしているのだが、あいにく夫は出張中で、ロンドンにはまだ知り合いもいない。申し訳ないが、見に来てくれないだろうか、と。

男はその頃、システムキッチンを取り扱う会社で営業をしていた。電話がきた時、男はキッチンの素材サンプルを載せた車で営業先に向かっていたが、すぐに行き先を変更した。

大きな通りに面したアパートの入口横に車を止めて、雨の中を小走りで入口に向かった。友人宅のチャイムを押すと、妻が、言葉なく、だが笑顔で迎え入れてくれた。

キッチンの蛇口を見ると、業者を呼ぶほどのことはなく、男が商売柄持ち歩いている道具で何とかなりそうだった。男が蛇口に屈み込んでパッキンと格闘している間、妻はその傍らにぴったりとくっついて、男の手先をじっと見つめていた。男は何か言おうと思ったが、妻が英語をよく解さないことを思い出し、飲み込んだ。

男が時々横目で盗み見ると、妻は長い髪を下ろしてはいたが、男とは反対側に寄せており、再びあのうなじを見ることができた。先日よりもずっと近くで見える。肩が触れそうな近さで、匂いも感じる。

妻が身じろぎして、ついに肩が触れた。触れ合った妻の薄いニットと男の薄いワイシャツは、むしろその下にある生身の感触を鋭くした。男も、妻も、目を合わせない。男の手の動きが止まった。妻が一ミリほど、にじり寄った。男の息が止まった。その時、妻が男の耳元に顔を寄せて、早口で囁いた。と同時に、外から聞こえてきた大音量がキッチンの空気を切り裂いた。路上駐車を取締まるマイクの声である。

男は挨拶もそこそこに、逃げるようにして部屋を飛び出した。そして、取締まりの警察官に平謝りしながら、車に乗って走り出した。その様子を、妻が小さい笑みを浮かべ、目を細めて、遠くの窓からそっと眺めていたことを、男は知らない。