鍵を開けて玄関で靴を脱ぐと、背後で気配が揺らめくのがわかった。振り返るとお前がしゃがみこんでおり、僕も膝を折って顔を近づける。

「どうした、頭痛い?」

返答はない。背中でも摩(さす)ろうか。そう思って掌(てのひら)を伸ばす。掌がお前の背中に触れた。

途端にお前の体が跳ね、僕の手が振り払われる。隻眼(せきがん)が僕の目を貫いた。

憎悪。

憤懣。

殺意。

虚空を漂う振り払われた手。僕はそれを引っ込めることが出来ず、しばらくその三つの感情と向き合っていた。それはみつ巴(どもえ)になって僕に襲いかかり、確かにこう言った。

殺してやる。

空耳じゃない。

殺してやる。

叩きつけるように。

殺してやる。

お前の声を聞き間違えるわけがない。

でも、お前の口から僕へそんな言葉が送られるわけがないと思った。思いたかった。

「入れって。今日は泊まってけよ。怪我人なんだから、一晩くらいは介助してやるって」

立ち上がって少し待つと、お前も蹌踉(よろ)めきながら腰をあげる。負傷兵が靴を脱いで廊下に上がるのを確認してから、僕は玄関の扉を閉めた。

時刻は十六時四十一分。

もう日が落ちる。お前の膝あたりに届く日向(ひなた)は薄らいでいた。

「寒いな」

エアコンのリモコンを操作しながら投げかければ、リビングの定位置に座った。お前の顎が小さく震えた。返事をしたのだろうか。声は聞こえなかったが、マスクをしているから口が動いているかどうかもわからない。

足を折りたたんで膝を胸に引き寄せ、頭をだらんと仰向けに倒して座っているお前を見ていると薄ら寒いものを感じた。普段、そんな座り方はしない。何処(どこ)を見ているのだろうか。視線の先を追ってみるが、天井があるだけで。足音に気をつけて近寄って目を覗き込んでみた。

露出した片目の瞳が黒く、濃く、澱(よど)んで、融けているように焦点があっていなかった。

木材や石炭を乾留(かんりゅう)して製した黒い粘液が、白目の真ん中に溜まっているようだった。

これでは何も映らない。

この目は何も映していない。

そしてこれは病院では治せないのだろう。

僕はそっとお前から離れると椅子に座って頭を抱えた。

 

【前回の記事を読む】そこから血と鼻を突く臭いがして、ゴミ袋を見やる。お前の服が死んだねずみの塊みたいに固まっている。

次回更新は12月31日(火)、20時の予定です。

 

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