【前回の記事を読む】ついに抗がん剤の副作用が…辛い治療に耐える妻の身体を慮る
巨大な三角
ミロのヴィーナスのレプリカ像が立つラウンジで革張りのソファに落ち着くと、時村さんがコーヒーを注文する声に被るくらいの勢いで廉の方から話し始めていた。
「私をデスクから降ろしてもらえませんか。病院通いと家事を繰り返しているうちに、もうデスクとしての職責を果たすことは無理だと分かりました」
「そうですか。承知しました」。
その腹積もりがあったのだろう、時村さんは意外なくらいすんなり請け合った。それから次の言葉を慎重に探している。
「デスクを降りられても、平林さんが積み上げてきたものは変わらずに残ります。五十五歳という年齢のこともありますし、ご希望通り『兵隊』に戻っていただきますが、今までの視点はそのままに、引き続きよろしくお願いします」
「ありがとうございます。ただ妻の看護態勢はしばらく変わることがないので、たとえ一編集記者に戻っても、今まで以上にご迷惑をかけることになるかもしれません」
「これは運命の巡り合わせとしか言いようがありません。いま置かれた状況で出来ることに、お互いがベストを尽くせば車輪は回り続けますって」
時村さんのひと言に、廉は霧の先が、ふっと見通せたような気がした。
「そうですね、そう考えるようにします。これからも引き続きよろしくお願いします」
やっとひと口、コーヒーを飲み、時村さんは話を続けた。
「ところで平林さん、講演をやってみませんか」
「はい?」
「あ、実はですね、カルチャーセンターからウチの部に依頼がありまして、女性対象の講座なんです。聴講者は二十人から三十人くらい。講演というよりは教室という感じで……」
「ちょ、ちょっと待ってください。その講師を私に、という話ですか?」
「そうです。平林さんにお願いしようと思ったのは、ひとつには場所が茅ケ崎の昭和公民館という平林さんのお住まいの近くだったからです。そして何よりも、復帰されるとはいえ平林さんは大変な状況が続く。それを即、深夜勤務のニュースの現場に戻ってもらうのはどうかと思いまして。講師を引き受けていただけたら昼の時間帯のプロジェクト勤務を十日間付けさせて頂きます。その間に資料集めやネタ作りをやっていただく。いかがでしょうか」
「講演の内容はどんなものに?」
「そうでした。まずそれですよね。この講座は三回シリーズとなっていまして、第一回は新聞の総論的な話です。取材や編集はもちろん、印刷から宅配システムまでトリビア満載の話を。そう例えばですね、新聞社の高速輪転機は時速何キロで回転して印刷するかとか、そんな話を横浜総局のデスクがやります。第三回は調査報道の現状というテーマで女性記者が。そして平林さんにお願いするのは第二回、お題は『新聞の作り方』です。平林さんは百貨店の宣伝部門からウチに転職されて、その後は新聞編集一筋でやってこられた。そこで見てきたもの、挑戦してきたものをそのまま語っていただけたらいいのではと思います」
廉はその話をありがたく引き受けることにした。