【前回の記事を読む】僕が「子宮卵巣摘出術」と「乳腺摘出術」を受けたときの話

手術

結局、手術には一人でバンコクまで向かった。それでも、現地でアテンダーに支えられてきたため問題はなかった。

カウンセリングの先生にヤンヒー病院を紹介してもらい、四年もかけてこの性を手に入れたのだ。

今手術を終え、僕は全く後悔していない。しかし、実感もなければ喜びもないのも事実だ。

僕には先の見えない孤独と不安が目の前に立ちはだかっていた。頼る宛はどこにもない。これは家族の意見に耳を貸さなかった代償かもしれない。

「絶対に負けるなよ」

頭の中で恵子がそう言っている気がした。今の恵子はとても穏やかな世界の中にいる。「大丈夫。僕はまだ頑張れる」

もしも、両親へわがままを言えたなら、これから生きる大変な道に対して応援してほしかった。心配ではなく信じてほしかった。そうすれば僕はもっと強くなれた。

次に両親に会う時は胸を張って生きられるようになった時にしようと決めた。それまでは一人で生きたい。これが両親に対する最後のわがままだろう。

ただ、僕が強くいられたのは、幼い頃に家族から注がれた愛情があったからだ。芯の強さの源がそこにあることだけは間違いない。

術後の経過は順調だった。バンコクに来て、予定通り十日目で僕は退院した。傷口はきれいで、胸に至ってはほとんど傷跡が目立たなかった。

退院後、しばらくは腕の挙上動作ができなかったものの、日常生活に支障はほとんどなかった。

手術直前、僕は今まで働いていた職場を退職した。そのため手術後の僕は一文なしの状態だった。

そんな僕に新たな悩みができた。それは書類手続きの予算だった。

僕が今までに通っていたカウンセリングの先生に最後の診断書をもらう時だった。

そこで僕は合計で十万円の請求をされた。あまりにも高額な請求に不信感を抱いてしまった。

診断書というものは先生によって値段を決めることができる。だからそんなものが法的に違反するはずはない。

しかしさまざまな書類を作成してもらう時も三万円、四万円、六万円と徐々に高額になっていった。

僕はそのクリニックから診断書をもらうことをやめ、別の心療内科のクリニックへ電話をかけた。ほとんどのクリニックは元の病院で診断書をもらうことを勧めた。

しかし、一度抱いた不信感を拭うことはできない。だから僕は次々と別の心療内科のクリニックに電話をかけた。