「救急現場には、多くの『はまりやすい落とし穴』があるんだよ」

普段はパグ犬のような穏やかな顔つきの菅平も、自分の現場観を語るときは、柴犬のように凛々しく見える。

「……急病か外傷なのか、男か女か、傷病者が何人いるのか、救急現場は行ってみるまでわからないビックリ箱だ。単純な交通事故に見えても、傷病者が何らかの疾患で意識を失って事故を起こしたのか、それとも、事故を起こした衝撃で意識を失っているのか。推測の繰り返しだ。大切なのは、現場の状況をしっかり見ておくことなんだ。その状況を正確に医師に申し送りをしなければ、発症の経過が誰にもわからなくなってしまう」

「さっき、隊長の指示で、台所の状況を確認してきたんだよ」

岩原が運転をしながら会話に参加する。

「機関員は、隊長と隊員が傷病者の観察をしている間に、一歩離れたところから全体を見ることができるからな」

傷病者の病態把握の根底には、菅平と岩原の阿吽の呼吸があったのだ。

「でも……」

菅平が続ける。

「気を付けなくてはいけないのは、現場では自分が全く想定していなかった、知らなかったことが起きている場合があるんだ。例えば、二〇〇〇年代のはじめに、入浴剤とトイレ用洗剤を混ぜて硫化水素自殺を図る方法が話題になっただろう? 実は、そういう報道が出る前に、私も硫化水素の現場に出場したんだ。『なんか、ゆで卵みたいな臭いがするな』くらいにしか思っていなかったけど……今思うと、それが硫化水素ガスの臭いだったんだ。深呼吸していたら死んでいたかもしれないな」

救急隊は、ニュースで話題になる前から、現場に居合わせてしまう。そういえば、一九九五年の地下鉄サリン事件で最初に出場した救急隊は、「駅で急病人」という指令で現場に向かったと消防学校で教わった。事件の全容がわからない段階では、「地下鉄にサリンがまかれて傷病者が多数発生している」なんて、現場で真っ先に到着する救急隊にはわかりようがないのだ。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『東京スターオブライフ』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。