【前回の記事を読む】天職だった広告業界から家業の弁当屋に…異業種転職に不安
天職からの転職《三十歳〜三十一歳》
いつものように朝七時からの盛付けが始まり二千食ほどの弁当が流れた頃、レーンの後方に据え付けられた空調機の前で一人が叫んだ。
「防鼠剤が床に零れているぞ!」
箱の中に入れられて空調機の上に置いてあったはずの粉末の防鼠剤が、乾いた床一面に拡がっている。
「レーンを止めろ!」
工場長の声に、レーンのモーター音が一斉に止まり皆が立ち竦む中、常務が駆けつけて屈み込んだまま大声を上げた。
「この防鼠剤がいつ落ちたか、判る者いるか!」
誰も応えず、防鼠剤の粉が空調機の風で飛散してしまった可能性が高まる。
「よし、万一を考えて、弁当も材料も全て廃棄しろ。これから、別の献立を流す」
「その前にレーンを洗浄して、床も水洗いして次亜殺菌しろ!」
「今から魚を焼いても間に合わないから、秋刀魚の缶詰と牛肉の大和煮の缶詰を開けろ。調理は大急ぎでキャベツの千切りを作れ!」
まるで、こうした事態を想定していたかのように、次々と常務は指示を繰り出す。
(私が常務の立場だったら、どうするだろう。きっと、狼狽しているに違いない)
呆気にとられながらも感心して、恭平は常務の言動に見入っていた。
「本川さん、申し訳ないけどお客様へ簡単な事情説明とお詫びの手紙を書いてください。そして、今日のお弁当代はいただかない旨も書き添えてください」
恭平の前職を知っている常務は、詫び状を書くことを恭平に命じた。
「えっ、五千食全てが無料ですか?」
「もちろん。弁当を届けず、迷惑を掛ける訳にはいきません。それに約束した献立を届けられないのだから、代金をいただく訳には参りませんよ」
毅然とした決断に驚きながら、
(殆ど私と歳の違わない常務に与えられた権限は、どれほどのものなんだろう?)
(こんな権限を与えている社長は、どんな人なんだろう?)
窮地に陥った現場の渦中に、北原屋と村野常務と澤井社長に俄然興味が湧いてきた。