【前回の記事を読む】雑踏の中にエキゾチックな感触…華やかな国際都市、西安へ!
中国に見る東洋のこころ
壮観! 六千体の兵馬俑
午後は東三二キロの兵馬俑坑まで走った。郊外は豊かな田園が続く。しかし農村の集落は意外に少ない。この広い土地をどのように耕しているのか不思議である。
周囲は西安平原と言うべき広大な盆地で、この地が天然の要塞だったことがよくわかる。この真っ只中を高速道路が一直線に延びている。一時間で秦の始皇帝陵の小山があり、その少し先に驚くべき兵馬俑の収まった広大な坑があった。
有名なので詳細は省くが、約六千体の等身大の埴輪が東を向いて地下に並んでいるのは壮観だ。一号坑は政府により巨大なガラスアーチ屋根で覆われ、内部は撮影禁止である。
俑一体一体の表情が全部違う。これはBC三世紀としては非常に高い技術で、当時全中国の彫刻師を集めたのだろう。これは秦の始皇帝が初めての中央集権による専制君主だったことを証明する。
わが国の戦前には始皇帝は誠に評判が悪かった。これは主として梵書などの儒教弾圧のイメージによるもので、ローマのネロに匹敵する宗教弾圧者としてのイメージである。しかし、始皇帝は政治の歴史観を持っていた。
中国ではBC一〇世紀に興った周の時代に封建制が確立した。封建制が産業や文化の激しい競争を起こすことは、京大の梅棹忠夫氏も指摘されている。中国文化では儒教や老荘や諸子百家が成立した。その反面、国中は麻の如く乱れ、封建制の崩壊期としての春秋戦国の時代になった。このような大国を統治するには強力な専制政治が必要と見抜いた天才が始皇帝なのである。
その後、漢時代に儒教が国教とされ、専制政治が頂点に達したのが唐の時代で、更に科挙の制度をつくり中央官庁のエリートを君子と見なすようになったのが宋の時代であり、ここに中国的官僚制度が完成し、儒教的専制政治は安定した。と同時に文化は停滞して、以後七百年の間はマンネリの歴史と言ってもよい。中国は“文化の化石”になってしまったのである。
それにしても兵馬俑は、殉死の制を止めさせるためとされているが、本当の目的は未だ明らかでない。