吉三は人懐っこいうえに、人を気にいったりすると、とことん好きになって、屈託のない話を遠慮なくする。そんな吉三の話を聞いているうちに重太郎は、江戸本所松倉町の曹洞宗妙谷寺の住職覚醒に、生まれたことに意味を求めているのかと聞かれたことを思い出した。

師匠の近江橘は、剣ばかりではなく心も鍛えろと、妙谷寺の覚醒を紹介してくれて、それ以来、重太郎はずっと座禅を組んでいるが、吉三の言ったことはなにがしかの答えなのかもしれない。

死生は存在にあるからといって、存在に意味を求めるのではなく、ただ存在を享受することなのかもしれない。簡単にそんな境地になれるわけもないが、それは生きてみなければわからないことなのかもしれないし、人の資質に寄るのかもしれないとも思える。

「しかしながら、自分一人が生きているわけじゃないですから、当然、柵がありまさーね。それで人様にも自分と同じ意識というものがあるとわかるわけで、相手を(おもんばか)るということをしなきゃいけない。ただ、意識は共有できないから、意思を通じあわせるというのは、難しいことではありますがね」

口下手で自分の意思を伝えることが不得手な重太郎は、勢い寡黙に吉三の話を頭のなかで反芻するばかりだった。

吉三のいう、生きていることをただ享受するというのは、そこに感謝が必要なのかなと、理解に疑問符がつくが、後の話は良くわかった。自分で選んだわけではない生まれつきに納得がいかなかった自分ではあるが、たくさんの人との柵のなかに生きているというのは良くわかる。

人は、皆、柵のなかで生まれて来る。それは条件付きでということだ。突き詰めていけば、親、兄弟、時代、場所、自分で選べないものはたくさんある。生まれてくるとはそういうことなのだ。