断っておくが私一人借りたのではない。噂では5~6人の間を通って友人の元に帰ったのは試験の前日であったという。また今でも夢で「山名君、君は化学の単位を取らずに卒業している。大学に帰ってきてとりたまえ」と言われて目が覚め、夢であったとホッとすることがある。とにかく大学時代の前半は徹底的にサボり、遊びほうけていた。後半の専門部は人並みにやったと思うが、決してほめられた生徒ではなかった。

[写真3]後日訪れた三俣連華岳(標高約3000メートル) 後方右に山荘と鷲羽岳の稜線を見る。 右は槍ヶ岳、穂高連峰、左は雲の平方面。二郎 を背負って登った。若く元気であった。

そんな中、大学時代やってよかったと今でも思い出すことがある。それは同級生の曾我部興一君、安田達司君とともに北アルプスの裏銀座と言われた三俣蓮華岳に登っていた時のことである。山荘主の伊藤正一さんと話すうち、山岳診療所をここに造ろうということになり、許可を頂いた。向いの槍ヶ岳には慈恵医大が山岳診療所を造っていて、それに触発されたためである。

当時は重いガラス瓶に入った点滴セットをリュックに詰め、岡山と3000m級の三俣蓮華岳との間を往復して、運び込んだことは思い出しても懐かしい。今でこそヘリコプターで運ぶらしいが、当時は危険な山道を背負って運んだわけである。その診療所は今も活発に活動し、岡大と香川大で維持し、登山者にも大変喜ばれていると聞いている。嬉しいことである。

私の父は岡大医学部の昭和9年卒、母は東京女子医大(当時は東京女子医専)の昭和9年卒。卒業と同時に父が母方の養子に入った。私の父の旧姓は吉岡で、岡山では江戸時代から知られた蘭学医の家系であった。母の父親の山名正士は岡山医学校を明治28年に卒業している。私の父は昭和9年岡大医学部卒。私は昭和39年の岡大医学部卒、息子の二郎は平成10年卒である。すなわち私の家系は4代にわたって岡大医学部、もしくはその前身のお世話になっている、極めて珍しい稀有な医系一家である。

このような家系は全国的にもまずないであろう。4代続いている家系は創立150周年を2020年に迎えた岡大医学部において他に一家系だけであった。何とそれが私の恩師大藤先生一家であった。大藤先生の所は途絶えたが、私の孫が岡大医学部に行けば何と5代厄介になることになる。今の時代ある意味どうでもいいことかもしれないが、継承するという意味においては大切なことでもある。

さて父は戦時中は軍医として仕事をしていたが、「わしは養子だから」と言いながらも趣味人として、結構楽しんでいた。私はそんな父から備前焼の薫陶を受けた。母は当時日本で唯一の女子医学専門学校の出身で、大学は全寮制で生徒にはお手伝いさんが付くお嬢さん学校であったようだ。

そんな両親が6人兄弟の3人が岡山に出ることになり、市内に小さな家を建ててくれた。3人はそこで起居を共にしたが、いとこ、その知人と常時5~6人が共同生活をし、希望大学へ、社会へと巣立って行った。親は何も言わず子供のため大変な事をしてくれていたのである。

それにしても母は眼科医として朝早くから夜遅くまで仕事をし、6人の子供を産み、美味しい料理も作ってくれ、立派に育て上げた。今考えても頭が下がる思いである。今を生きる女性も子供1人2人でオタオタしてはならない。